二千四百十七(うた)小森厚「上野動物園」
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月十六日(火)
小森厚「上野動物園」を読み、参考になる内容が多かった。まづは案内図。この本の出版された一九八一年当時のものであらう。表門から少し離れた右側に正門があり、団体用だ。西園は、やはり花園門だ。東照宮門は既に無い。表門について
この地域まで(中略)ひろがってきたのは、昭和二十四年(一九四九)のことである。その頃はまだ(中略)この位置には塀があっただけである。
昭和二十七年の七十周年記念祭のときに
現在、東京都美術館のある場所(当時美術館は北隣の場所にあった)、当時「二本杉原」といった運動広場が、臨時に動物園の内にとりこまれ、そこに、仮の表門が設けられたので、これに対応する臨時売札所(中略)は、七十周年記念祭が終った後も、ここにそのまま残された。(中略)ここで入場券を買ってから、さらに、正門迄一〇〇メートルほど進まないと(以下略)
今は表門の出口が工事中の為、正門から出ると前が美術館で不自然だ。なるほど元は北側だったのか。百年史には「二本杉原」の名が出てくるが、この本でよく分かった。
その不便が解消されたのは、昭和三十七年(一九六二)の開園八〇周年の記念祭のときである。それ以来、こちらが表門になり(以下略)
表門が出来たことで、京成電鉄の博物館動物園駅から遠くなった。同駅が廃止の原因ではないだらうか。
閑々亭の裏に、鉄柵があるが、その向うに(中略)今は水が流れていないが、幅二~三メートルの開渠となっている。
これは千川上水である。寛永寺まで流れ
余水となった流れは、前出の桜橋の下を通り、閑々亭の裏を通り、(中略)クマ舎、白熊舎の通路の下あたりを通り、花園町に出て、不忍池に落ちていたのである。現在は猛獣プロムナードのライオン舎の後から暗渠となっているが、明治大正時代は、これが開渠となっていて、開園当時は、これが、動物園の地境になっていたのである。また、明治三十四年頃までは、動物園にとって唯一の水源であったが、(中略)水質は悪く(以下略)
「(中略)」の部分は、古い、末端、余水を理由とするが、開渠だと汚水が流入するのではないだらうか。
千川が動物園を流れると 百年史及び小森著で初めて知りて驚きが今も続くは 多摩川の水が谷避け上野まで来る
反歌
飛鳥山南は田端道灌山二つ途切れて上野の山へ
今は、田端駅前から動坂へ行く道路の切通しを橋で、道灌山は下へ降りて西日暮里駅前の道路を過ぎたらまた上る。二ヶ所で切れてしまった。
閑々亭ツル舎のわきを通って、園路を横断する。この園路は、開園当時は正門におりてゆく坂道であった。だらだらとくだる途中に小さな橋が二つある。一つはツル舎の池から流れ出る小川にかかており、一つは千川上水にかかっていた。千川上水が暗渠化された後は、そのかぶせた上に造られた人工の流れ(今は水がない)にかけられ(以下略)
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七月十七日(水)
不忍池北側では、博覧会が明治時代に四回、大正には二回開かれ
大部分は仮設のもので、博覧会終了後は撤去されていたが、大正時代には財団法人日本産業会の所有する産業館が(中略)キリン舎・カバ舎・小獣館などが馬蹄形に並ぶあたりに、恒久的な展示館としてつくられ、昭和になっても、ここを会場として幾多の博覧会が開かれてきた。そして、東京市電(後の都電)は、不忍池の裏側を北上し、東照宮下で西にカーブし、さらに、前述の産業館の東と北を迂回するようにして七軒町に至るまで、専用軌道を走らせていた。東照宮下のカーブするあたりには「東照宮前」(後に「動物園前」と改称)という停留所が設けられていた。
この本の園内図で見ると都電は、南から北へ行くいそっぶ橋下の道路が緩く右へ曲がるところを緩く左へ曲がり、子供動物園(当時)が終る所を右に急カーブし、小獣館が終る辺りを左に急カーブしバーバリーシープの手前を右に急カーブし動物園の境界を左に急カーブしたのだらう。この急カーブの連続は、普段この区間を乗った人以外はもう記憶にない。特に今の園内図を見ると。
七軒町専用軌道は廃止日の翌日見ても銀色も 数日後には雨が降りその翌日は薄茶に錆びる
反歌
急カーブ連続するは産業館跡地の北と東を走る(終)
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