二千四百十五(うた)「上野動物園百年史」
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月十五日(月)
「上野動物園百年史」を読み、東園のみのときは、表門と裏門だった。水上動物園が出来ると、都電の上野動物園前停留所の東照宮門、弁天門、花園門ができた。花園門は今の池之端門で、東照宮門前から道路を北へ行き本園(東園)裏門を花園門と呼んだのは間違ひなのだらうか。或いは裏門を出ると花園町なので、花園町の門が通称ではないだらうか。
百年史花園門を調べれば 西園にあり今で云ふ池之端門百は驚く

反歌  裏門は煉瓦作りで六十年花園門と思ひ続けた
昭和二十七年の七十周年祭の案内図を見ると、東照宮から不忍池へ降りる階段上に門がある。見晴らし門で、いそっぷ橋が出来る前はここを出て階段を降り道路と都電の線路を渡って、東照宮門より分園へ入場した。もう一つ、東照宮の正面(上野の山側)のすぐ右にも門が見えるが、名称は書いてない。
見晴らし門は、東照宮の後ろを迂回した来園者用に作られたため、石段を下りるのが危険で後に下り坂の先に門を移した。名称は見晴らし門のままだった。
明治十五年に本園が開園したときは
東と南は、当時、開渠であった千川上水の末端部分が境界となっていた。(中略)正門も現在の閑々亭の坂道を降りて、千川上水にかかった閑々橋を渡ったところにあったようである。

百年史千川上水園内に流れるとあり 千川が上野に来るは田端から高台通り流れて来たか

反歌  調べると昭和四十と四年まで板橋にある浄水場も
反歌  なほ調べ昭和四十六年に印刷局へ送水停止
--------------------ここから(路面電車、客車、その周辺、三十)--------------------
昭和44年になると、不忍池北側、西園と都電線路をはさんで隣接していたところに住居を構えていた竹内金太郎が破産をし、花園町(現、池之端3丁目)1番地にあたっていた所有地について、(中略)都では、これを公園用地として買収した。

池之端七軒町を発車して動物園前向かふとき 左にヤギの姿あり五十年後に事情が分かる

反歌  二十番三十七番四十番系統三つここも幹線
上野公園から上野駅へ行く都電は三系統、左に曲がり上野動物園前から池之端七軒町へ行く都電も三系統。後者は動物園と民家に挟まれた寂しい場所を走ったが、どちらも幹線だった。(終)

兼、(路面電車、客車、その周辺、二十九)へ 兼、(路面電車、客車、その周辺、三十一)へ

(上野動物園その七)へ (上野動物園その九)へ

メニューへ戻る うた(九百五十四)へ うた(九百五十六)へ