二千四百九(うた)お江戸上野広小路亭
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月十二日(金)
弁天門を出て、鈴本の前を通り、道路を横断し昔は、チャリンチャリンと鈴の音がする店(鈴屋だったか)があったがと見たが、既に無かった。路地から上中、お寺、アメ横、アメ横センターを見て、吉池へ入った。昔は百貨店だったが、今は地下一階と地下二階に面影を残す。地下二階で酎ハイと日本酒カップを買った。
御徒町国電降りて 吉池で食べ物を買ふ もう一つ松坂屋にて食べ物を買ふこともあり 広小路都電を待ちて家へと帰る
反歌
上野にて降りる時には公園で都電に乗るもこれは少なし
広小路の一つ先が公園。上野駅で降りるときは、ここから乗った。
松坂屋本館に入り、新館(今はParco_yaと東宝シネマ)との連絡通路が、四階と六階から、三階と六階に変更されたことを始めて知った。Parco_yaが改装開店したときも来たが、気付かなかった。地下一階は、今も両館とも松坂屋の食品売り場だと思ふ。
雨だったが、本館(今は本館のみが松坂屋だから本館と云はなくてよいのだが)の屋上へ行くと、屋根の有る椅子があって、ここでお江戸上野広小路亭開演を待った。
開場時刻を過ぎたので、一階へエレベータで降りた。百貨店や量販店ではエスカレータを使ふが、たまたま来たので乗った。何と、小学生のときとエレベータの本体が変はらない。かつては案内係が運転したが、今は無人になった。エレベータを待つ廊下頭上のエレベータが居る階の表示も、昔と変はらない。
変はったことは、かつては階段の左側と右側に、同じ数のエレベータがあった。今は左側だけだ。もう一箇所、広小路に近いところに二台の同型エレベータがあったが、これも無くなった。といっても、どちらも無くなったのは昭和四十五年頃だ。
館外に出た後、連絡通路が四階から三階に変はった様子を下から見たが、痕跡は無かった。信号を渡り、上野広小路亭に入った。鈴本と同じくらいの広さを予想してゐたが、もっと小さかった。それでも着席率20%か。
上野広小路亭には、鈴本と同等になるまで、努力してほしい。鈴本は芸術協会を追ひ出したため、さういふところは嫌ひで、一回も入場したことが無い。吉池には一回観に行った。かつて近くにあった講談の定席も一回観に行った。
上野広小路亭の改善点は、靴を履いたまま客席へ行けるやうにするとよい。あと、軽いアルコール飲料の自販機を再開するとよい。鈴本は、通行人が入場しようと感じる寄席囃を流す。上野広小路亭も同じだが、音量が小さい。鈴本を見倣ふとよい。
まもなく開演し、前座が登場した時に「待ってました」と声を掛けた。これは前座に期待したのではなく、開演を待った。あとは、主任(トリ)が登場する時にも「待ってました」と声を掛けるつもりだった。
掛け声は開口一番開演を待つ心にて 二回目は主任(トリ)の出る時心に決める
反歌
掛け声は開演を待つ心でも開口一番前座も応援
ところが異変が起きた。足が寒い。今日は動物園内を歩き回るので、半ズボンで来た。いろは亭は半ズボンだと寒いので、足に掛ける布と、上に羽織るものを持ってくることにしてゐた。上野広小路亭は初めてなので、布と羽織るものを忘れた。
最後まで観ると、体が冷えるので、中トリ(中入り前)まで聴いて外へ出た。夕方の通勤時に鉄道に乗るのは三年五ヶ月ぶりだ。混んではいたが、それほどではなくてよかった。家に着き、風呂に入り、夕飯を作ると八時になった。仲入りで出たのは正解だった。(終)
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