二千三百六十四(うた)いろは亭、菊春三木助二人会
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月八日(土)
梶原いろは亭で菊春師、三木助師匠の二人会があり、聴きに行った。先代どほしの仲がよく、ネタを交換した。当代は二人とも、いろは亭で主任を務める(いろは亭月番組案内)。主任(トリ)の語が出たので引用した。
まづは二つ目馬久さんの「陸奥間違ひ」。開口一番で演じるには大作だが、浪曲と落語で演じられる。話が大きくなって将軍にまで行くところに、浪曲の香りがする。
ここで馬久さんが「見届け役」で、三人の鼎談になった。先代どほしで、落語から「加賀の千代」、浪曲から「鼠」を交換した。鼠は当代三木助に断ることなく誰でも演じる。「加賀の千代」は浪曲で誰も演じない。先代菊春も、番組には演題に載るが、放送の録音が無い。
楽屋では嫌ひな人とも話をするが、三木助は好き嫌ひが激しく、嫌ひな人とは話をしなかった。そして芸術協会から落語協会へ移った。菊春は浪曲協会ではなく、芸術協会へ所属した。
菊春さんが年上で、馬久さんが二番目、三木助さんが一番若いと感想を持った。帰宅後調べると、菊春さん四十四歳、三木助さん四十歳、馬久さん三十九歳だった。三木助さんを若く感じたのは、対談があまり得意ではないのかな、しかし噺家は噺が勝負だ。菊春さんは浪曲の熱情家、馬久さんは良識派。さう思った。
次が菊春師の「崇徳院」。話の流れが落語発祥を思はせる。浪曲だと軽いから、もっと重厚に演じると浪曲らしくなる。
ここでお仲入りだが、「おなかいりー」の掛け声がないことに気付いた。と云ふか、これまで三回来たが、お仲入りだとは気付かなかった。単に、対談後に舞台を直すために時間が空いたのだと思った。「おなかいりー」を録音で流すとよいかな。
寄席太鼓お囃子そして掛け声のおなかいりいで皆が笑顔に
主任は三木助さん。観るのは初めてだが、落語の典型でよかった。
典型は最後のオチで勝負する途中に僅かくすぐり入れる
近年はギャグを連発するものが多いが、あれは落語ではない。
三木助さんを帰宅後調べてもう一つわかった。有名な名人は先代ではなく先々代。先代は叔父(母の弟)で北区田端出身。先々代も田端に住んだから、梶原のいろは亭は大きく取り上げてもよい筈だ。しかし先代が四十三歳で首を吊った。前座の雑用をせず車で乗り付け、盛大な結婚式を挙げて帰国直後に離婚。三年後に胃のほとんどを摘出。晩年は奇行が多かった。なるほど三木助名跡には、先々代の輝きと、先代の暗さがあった。
三木助を子が継ぐ報道記憶あり 今日観た人と思ひたが 調べて見ると異なりて間に一人暗き話が
反歌
三木助は典型的な落語にて年重ねれば名人となる
先代が駄目になったのは、タレントに力を入れ過ぎたためでは。そしてスキャンダルや胃の手術でタレントの仕事が無くなったとき、残ったものは少なかった。(終)
(6.9追記)三木助師匠の鼎談で気になったのが、先々代の孫、著作権(鼠は祖父が落語へ移入した)、芸歴は菊春師より長い、の発言だ。これらは何の問題も無いが、さう云ふことを気にせず芸に励むとよいと感じた。
(6.9追記2)芸術協会加盟は玉川太福だけだったのに、玉川奈々福、広沢菊春、国本はる乃が会員(色物)なのでなぜだらうと思ったら、先月加盟したことが分かった。五月八日の落語芸術協会(昭和52年に社団法人になるとき名称が変はった事を今まで知らなかった)のホームページ更新情報に
下記演者が当協会の新協会員となりましたのでご紹介いたします。
玉川奈々福(浪曲)
広沢菊春 (浪曲)
国本はる乃(浪曲)
これから寄席をはじめ落語芸術協会の様々な興行でお目通りすることと思います。
お引き立てのほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
落語協会に人数で負けて、上野の鈴本演芸場から出て行き(鈴本の落語協会助演指示で追ひ出され)、巻き返しにはよいことだ。鈴本から出て行った後に、御徒町駅前吉池の畳敷き広間で土曜に寄席を開いた。Wikipediaによると
1984年、席亭との軋轢により鈴本演芸場から撤退した落語芸術協会が、7階和室を用いて『吉池土曜落語会』を開催した。吉池経営陣の理解と支援から当初常打ち寄席の予定だったが劇場営業許可を得ておらず、東京消防庁の指導に従いお座敷食堂のイベントという体裁で客に湯茶や栄養ドリンクを供しながら、週1日のみ興行された。
小生も一回観に行った。かなり広いが、マイクを使はず肉声だった。お座敷食堂とは云へ、注文せず観る人がほとんどだった。
1996年5月に永谷商事所有のお江戸上野広小路亭が開館したことで芸協の定席を広小路亭で行うことに伴い、終了した。
兼、「浪曲、その三十」へ
「いろは亭、浪曲その三十二」へ
メニューへ戻る
うた(九百三)へ
うた(九百五)へ