二千三百五十一(朗詠のうた)1.法華讃を飯田利行「定本良寛詩集」から、2.執筆が考へる
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月二十七日(月)
「法華讃」の解釈は、難しい。大乗経典は釈尊の直説と信じられた時代である。だから法華経を尊重することはあり得る。道元も、法華経を尊重した。
しかし達磨大師が中国へ来たときは、不立文字だった。達磨大師が法華経などを持って来たとは考へられない。ここでまづ解決法は、(1)戒定慧の三学だ。禅は定で、経典は慧。或いは、止観のうちの、禅が止で、経典は観。これらは住み分け方式だ。
別の考へとして、(2)良寛和尚は法華経を解釈し詩を作った。或いは、法華経を題材に詩を作った。これは詩を作ることを中心にした説だ。
最後にもう一つ、(3)良寛和尚は覚った。そして覚った立場で法華経を解説した。曹洞宗の宗内組織からは離れたが、曹洞宗で修業をしたので、覚ることを目的とした。詩の中に、覚ったことを言った途端、覚りが消えると云ふものがある。この詩によって、良寛和尚は覚った。かう考えるのが普通だ。
良寛和尚は無欲だから、覚ることを目指すなんて、そんな欲の有ることをするはずがない。さう考へてしまったが、欲が無くならなければ覚れないから、問題なかった。
江戸の代に禅が目指すは覚りにて 良寛和尚の法華讃読むと覚りた事示す文
反歌
戒定慧保つの僧は在俗と違ふ世に住む覚りを目指す
反歌
法華讃僧侶の為に書き残す在家読みても役には立たず
反歌
道元が僧と俗とは異なると云はれた事が今頃分かる
五月二十八日(火)
小生は、頓悟には反対だ。悟ったあとは、どう修行をするのか。一方で、小生は在家だから、さう考へるのだらう。良寛和尚は出家だし、曹洞宗は覚ることを目的に修行をするから、和尚がこれに倣ふのは、当然である。
そして覚った。法華讃から、さう取れるものが幾つもある。例へば
(前略)
法華従来 法華を転ずと。
さらに雪上に霜を加へきたる。
最後の一行は、詩の後の一行だがこれが重要で、雪の上に霜を加へても無意味ではないか、と考へるのではなく、覚ったから雪の上の霜に見える。霜を作る為に修行をしたたからこそ、覚れた。
さう考へると、晩年に阿弥陀仏に寛容なのも頷ける。覚った立場から見れば、曹洞宗と違ひはない。先ほど、覚った後はどう修行をするのかと書いたが、覚る前と同じ修行を続けるに決まってゐる。良寛和尚は、覚ったことを言った途端、覚りは消えると書いたが、覚った後に手を抜いてもやはり消える。
船に乗りもろこし行きは本当か 誉章(たかあき)なのか実の父 新たに起こる覚りたか 三つの問ひはそれぞれの道に詳しき人たちが同じ意(おも)ひと時経るにつれ
反歌
漢文と歴史仏法詳しきの人たちにより正しきを知る
江戸時代は
法華経や阿弥陀経など お釈迦様直に説きたと思はれた世に生きた僧 法華讃尊き教へ今でも光る
反歌
もろこしへ達磨大師が来たときの流れは生きる良寛和尚
江戸時代が終はると
明治には神と仏を分けた上 僧が妻持ち俗となり 僧無き世には覚る人無し
反歌
松陰は良くも跡継ぐ俗物ら神仏壊し昭和に負ける
反歌
妻を持つ人は僧侶を名乗らずに先達または指導役など(終)
第二部
五月二十九日(水)
今回の特集は結論を、
(1)戒定慧の三学だ。或いは、止観のうちの、禅が止で、経典は観。
(2)法華経を解釈し詩を作った。或いは、法華経を題材に詩を作った。
で完了の予定だった。ところが特集を書いてゐると、覚ったのでは、との思ひが浮かんだ。通常は、考へたことを書く。しかし書くことで考へることがある。この感想は、五年以上前にも持ったことがあった。
実父誉章(たかあき)説で、良寛様が出家した理由や、一部の書籍に以南との不仲説があることと、弟が所払ひとなったあとも仲が良かったことが解決する。
渡航説で、良寛和尚の所在不明期と、それを誰にも話さないし詩や歌にもしないことと、詩が平仄を無視することと、口語が入ることが解決する。
覚り説では、修行と法華経の関係、若いときは修行一本だったのに子どもたちと手毬をするやうになったこと、阿弥陀仏に寛容になった理由が解決する。
書くことで思ひが浮かぶ事がある思ひを書くか書きて思ふか(終)
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