二千三百四十九(うた)最新の良寛和尚論
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月二十六日(日)
良寛和尚に関する本は、いろいろな人がいろいろなものを書いた。そのため小生の良寛和尚論の中に、これらを読んだことによる間違った情報で書いたものもある。だから、最新の良寛和尚論をまとめることにした。
まづ良寛和尚は、最後まで僧侶だった。江戸時代は僧俗の区別が厳しかった。そして曹洞宗の教義から外れたことは、しなかった。すべての経典が釈尊直説と信じられた時代である。法華経を誉めたり、阿弥陀仏を誉めても、曹洞宗の範囲内である。
坐禅をしなくなったこともない。典座の僧を称へる詩を書いたが、作務をするから坐禅の時間が無いのであり、時間があるのに坐禅をしなくてよいことは、絶対にない。
良寛和尚は、明治以降少しづつ有名になった。自分から名を広めようとしたのではなく、會津八一などの功績である。江戸時代にも、書では一部の人たちの間で名を知られた。漢詩や和歌でも、一部の人たちの間で名を知られた。
良寛和尚は、勝れてゐたのか、劣ってゐたのか。これは漢詩を読むと、勝れてゐたことが分かる。名の大愚、或いは乞食僧と表面だけ見てはいけない。子供たちと手毬をしたのは、劣ってゐたからしたのではない。修行の結果、成仏して心が優しくなったためだ。
毎日坐禅をするから、忍耐力が堅固になったとしよう。これはラヂオ体操をするから健康になった、と云ふのと同じで仏力がない。さうではなく、坐禅をするから仏力で優しくなった。これが正解である。
良寛和尚は、法話をすることはしなかった。代はりに行動で示した。江戸時代は旦那寺が固定だから、布教をしてはいけなかった。だから行動で、教導した。
良寛和尚は、江戸時代幕藩体制による宗門組織からはみ出したが、仏法や曹洞宗からははみ出さなかった。
人よりも勝れた僧は 宗内を上がる争ひ縁遠く 釈尊達磨道元や もろこし及び秋津洲むかし人たち後へと続く
反歌
筆及びもろこしうた(詩)とやまとうた(歌)勝れるを知る僅かな人が
良寛和尚の実父は誉章(たかあき)だらうか、渡航したのだらうか。小生は、二つともその可能性が高いと見た。専門家は賛成だし、二つが事実だと疑問点が解決するからだ。とは云へ、両論があってよい。良寛和尚に関する書籍には、ずいぶんひどいものがあるなど、幅が広い。だから両論があって一向に構はない。
ところが最近は、実父が以南と云ふ事と、混同万嘘の土佐滞在説を、さりげなく既成事実として扱ふ書籍が幾つかある。実父誉章説を書いた人が、発表したら大変な騒ぎになる、と別の良寛研究者と話したことを読んだが、大騒ぎはすべきではない。人数や全国良寛会の圧力は、良寛和尚が嫌ったやり方だ。
良寛和尚は、宿泊などに曹洞宗寺院を避けたとみられる。これは宗門組織からはみ出したので、泊まる側も宿を提供する側も、気まずい思ひをする。だから他宗の寺に泊まっただけで、対立してゐた訳ではない。曹洞宗内の親しい僧侶とは、その後も交流が続いた。
円通寺の国仙和尚が遷化の後、次の住職と不仲だったとする説があるが、良寛和尚が下山したのは修学の為だ。国仙和尚が黄檗宗と関係あったことも、無縁だ。それらは詩から分かる。
良寛和尚が乙子神社の社務所に泊まったことは、神官になった訳ではない。詩に半分僧半分神官とあるが、あれは社務所に住むから文章の修飾で云ったもので、江戸時代までは神仏習合だった。
先ほども書いたが、良寛和尚は人より劣ってゐたのではなく、遥かにすぐれてゐた。良寛和尚愛好者の中には、劣ってゐたが皆に好かれたとして尊敬したい人も大勢ゐることでせう。それはよいことだ。人は、別の角度から見ると、勝れてゐることが劣ってゐると採点される。だから人それぞれ自分の角度から点数を付けて、尊敬すればよい。
見る向きで勝れてゐたり劣りたり それぞれに合ふ点数で 良寛和尚尊敬しよう
反歌
裏を見せ表を見せて散るもみじ勝れる劣る二つ備へる(終)
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