二千三百五十五(うた)飯田利行「定本良寛詩集」その一
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月三十一日(金)
前回は法華讃を読んだので、今回は残りの詩を見てみよう。第一章「慨世警語・克己策進」の先頭は、唱導詩だ。訳文のみ挙げると
出家も在家も年ごとに軽薄に傾き、世をあげて道義も年々にすたれてゆく。
人の心も、いつもいつも平静を欠くようになり、仏祖の教えも日に日に影が薄くなってきた。

現在とまったく同じである。現在は、五つ理由があると考へる。
(1)敗戦 昭和三十一年(早生まれ)の小生から見ると、戦前に成人を迎へた人は悪くない。戦後に成人を迎えた人は悪い。小生の年代は、戦前に成人を迎えた人が社会の中心だったため、戦前成人組の影響を受けるので、そのことに気付いた。
(2)高度経済成長 小生が小学生のとき思ったことは、世の中がどんどん悪くなった。それは「チロリン村のクルミの木」の主題歌と、その後の「ひょっこりひょうたん島」の主題歌で判った。そしてそれは経済成長が原因だ。
(3)テレビ テレビの出現で「一億総白痴」が流行語になった。そしてそのとほりになった。
(4)プラザ合意 これで人心と社会が崩壊した。
(5)欧米猿真似 社会党が消滅してから、反米は石原慎太郎、小林よしのりなど少数になった。しかも世間から注目され出すと反中になるから不思議である。
さて、良寛和尚の時代は何が原因だらうか。黒船と開国があるが、良寛和尚の時代より少し後だ。地震があった。飢饉もあった。貨幣経済が進んだ。これもある。
長期には、幕府の寺請け制度で、寺が堕落したことで、人心が荒廃したこともある。良寛和尚は、この線で世の中を見たと思ふ。
次の詩に移り、書き下し文が
仏はこれ 自心の作
道もまた 有為にあらず。

で始まる詩について訳文は
ほとけとは、自己が自己になりきることである。菩提(二文字で、さとり)の道は、修行すれば効果が出るという甲斐性のある迷いの法ではない。

これは曹洞宗に特化し過ぎる。小生が訳文を作れば
ほとけとは、自分の心が作る尊いものである。道もまた、無常ではない。

「自心の作」は、妄想と異なる。その逆である。だから「尊いもの」を入れた。
利行さん良寛和尚の詩を訳す 勝れた本は貴きが 曹洞宗に合ひ過ぎるこれが唯一玉に瑕(きず)かも

反歌  自己が自己なりきることは曖昧で仏になるとしたほうがよい

六月一日(土)
「古仏の 教法を留めしは、」で始まる長い詩の真ん中辺りの
有智は その宗を達(さと)り
頓(とみ)に像外の人となれり。
愚者は ことさらに拘束して、
文に因って 疎親を分つ

訳文は
智慧のすぐれた人は、仏法の要旨を会得して、たちどころに悟りを開くことができたであろう。
愚者は、経文の言葉にとらわれて(以下略)

今回ここに注目したのは、良寛和尚は、有智であり宗を達(さと)った。その前提で詩を読むと、味はひがある。或いは、覚る前の詩もある。
「流年 暫くもとどまらず、」で始まる詩は、月日の流れを詠ったもので、三行目の訳文
ついこのあいだの紅顔の美少年が、はや今日は老いやつれて妖怪(二文字で、もののけ)のように変化してしまふ。

ところで国会は、妖怪みたいな顔の人が多い。
「大道 元来 程途なし
知らず 何れの処か これ本期」で始まる詩は、まづこの部分の訳は
悟道(二文字で、さとり)には、もともと段階というものがない。また何処がさとりの拠り所か、それすらも分らない。

このあと、世俗の現象を追ひ求めては駄目だし、妄念が湧いたとき取り除かうとしても駄目だ、とした上で
ただ到達しえた幽玄至妙のこの道を、ふと言葉に出して説こうものなら、瞬時に失せて元も子もなくなってしまう。

良寛和尚は到達したから、かう書けたのであらう。

第二章「参禅弁道・愛宗護法」に入り、「荒村に 食を乞ひ了(をは)り、」で始まる詩は、最後に
我れもまた 僧伽子、
あに空しく 流年を渡らんや。

訳は
私もまた僧侶のはしくれ。だからどうして月日をむなしく過しておられようか。

混同の出鱈目がよく分かる。次は
我れ昔 静慮を学び、
(中略)
よし安閑の処を得たりとせば、
けだし修行の力に縁らん。
いかでかしかん 無作に達して、
一得 即永得ならんには。

訳文は、中略の部分を含め
私は、むかし坐禅を修め、少しずつ気息を調えた。
坐禅に明けくれて幾年月を経た。が、その間、ほとんど寝食を忘れんばかりに勤めた。
現在もし自分にゆったりとしたところがあるとすれば、思うに、それは、この坐禅修行の力によるものであろう。
けれども、作為のない無心の境地のこつを一たび体得したら、これから離れようとしても末永く離れられるものではない。

最初の二行と、後の二行の差は、覚りを得たと云ふことだらう。
ゆったりし無作の心地で過ごせるは 修行続けて一たびは得て末永く離れられずに

反歌  寝る食べるこれらを忘れ坐るにて今このやうにゆったりを得る(終)

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