二千三百四十七(朗詠のうた)飯田利行「新撰禅林墨場必携」(その三)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月二十六日(日)
「処世」の章では
過ちを知らば 則ち速やかに改めよ、
執すれば則ち 是も真にあらず。
         [十一真]
過ちを犯したと知ったならば、直ちにこれを改めよ。正しいことでも執着すれば、もはや真実とはいえなくなる。
   大愚良寛[定本良寛詩集]

前半は誰でも分かるが、後半は気を付けないとかうなってしまふ。
天下 何んぞ狂える 筆を投じて起たん、
人(じん)間(かん)道あり 身を挺(ぬ)きんで之(ゆ)く。
                 [四支]
今の世の中は、欧化一辺倒である。私は、とくに英国人は馬鹿だと感じて帰朝したが、これを真似ろ真似ろといっている日本人も大馬鹿者で、そのうえ下等で狂っている。(中略)この娑婆世界には、大事な万古不易の道理が保たれている。その道理を身につけて、率先して実行にうつしてゆかなければならないのである。
   夏目漱石[漱石詩集]

解説に賛成。
「生活」の章で
毎日 ただ面壁、
時に聞く 窓に灑(そそ)ぐ雪を。
(前略)毎日ただ坐禅を組んでいるだけ。けれども時には、久かたのあまぎる雪の窓うつ音に、じっと耳を傾けることもある。
   大愚良寛[定本良寛詩集]

良寛和尚は、越後へ帰国の後は余生を送っただけだと思ふ人も多いことだらう。実際は、修行の毎日だった。
胡僧 頓漸を説き、
老子 太玄を談(かた)る。
        [一先]
印度から西来した達磨大師は、対侍の現象を帰一する絶対境の禅を説いたが、南頓、北漸とその説き方が分かれてしまった。(中略)老子が語った太玄の教も、虚と実、有と無とに及んでいる。
   夏目漱石[漱石詩集]

漱石は、漢文の素養が極めて高い。
七仏以前に 血脈を通ず、
釈迦弥勒は これ児孫。
       [十三元]
総持寺開山瑩山紹瑾和尚のように偉大なお方は、仮相仮仏(如来が衆生仮度のために種々の身を現ずる)と違って、七仏以前の諸仏と血脈を通じ(中略)したがって釈迦や弥勒もその法孫と称することができよう。
   大智祖継[大智偈頌]

曹洞宗は、釈尊から法脈が繋がるとするから、この考へ方は広くは受け入れられないかも知れない。一方で、道元と、道元から数へて四祖の瑩山を両祖とするから、かう云ふ考へがあるとも云へるし、達磨が宗祖だからそれから後はすべて同一とすれば、四祖の瑩山が両祖に矛盾はない。
大智祖継は、瑩山紹瑾の指示で布教をした僧侶なので、瑩山への敬愛が強いのだらう。小生は、釈尊、達磨、道元、瑩山、国仙と繋がる歴史の流れを尊重したい。
「所作」の章で
力を用いて碌甎を磨くとも、
なんぞ堪えん もって鏡となすに。
力をこめて瓦や石ころを磨いたとしても、それでどうして鏡とすることができようぞ。禅を身につけると、磨くこと自体に意義があるので、結果のさとりを求めての修行は邪道である(以下略)
   寒山[寒山詩]

解説に賛成。
「修行」の章は、役立つものが無数にある。そんななかで
正見を出世と名づく、
邪見は これ世間。
     [十五刪]
俗世を超越するということは、正しく明らかな見識を身につけ(中略)俗世は、よこしまな見解をもった者が満ち溢れているところである。
   大鑑慧能[六祖檀経]

出世の意味が、仏法では異なる。
「道心」の章では
吾れ 天を失えるの時 併(なら)びに愚を失う、
吾れ今 道を会せば 道 吾れに離(つ)く。
             [七虞]
私は、かねてから天の道に則るべくつとめてきたが、今になり(中略)忘れた途端に、(中略)頑愚の美徳をも忘れ去ることができた。だがその私が、天の道を会得(中略)すれば、天の道の方で私の方についてくることがわかった。
   夏目漱石[漱石詩集]

漱石はずいぶん修行したことが分かる。修行したからこそ、身心の不健康を克服し、物語を執筆できた。
香烟一炷 道心濃(こま)やかなり、
何処に趺坐してか 古仏に逢わん。
          [二冬]
(前略)私はこの虚堂に在って、線香一本を立てることによって、いつでも古仏にお逢いしている。(以下略)
   夏目漱石[漱石詩集]

利行さんは「大自然の息吹が古仏の道現成」と難しいことを書くが、小生は線香の雰囲気、と簡単に考へた。幼児のときから仏壇やお墓参りで親しんだ習慣の威力である。
道を観ずれば言(ことば)なく ただ静に入るのみ、
詩を拈(ねん)ずれば句(うた)あり ただ静を求むのみ。
(前略)心を無心にして、道に三昧となれば、黙を貴しとなし、ただ寂静の世界に入り、(中略)また無心にして詩を作れば(中略)韻字平仄が用箋に躍り出てくる(以下略)
   夏目漱石[漱石詩集]

これは、漢詩でも和歌でも作る時の要諦だ。
「さとり」の章では
空を観ずれば 境 いよいよ寂なり。
仏法の本来空の真理を観とれば、見るもの聞くものの対境(事象)がますます静寂にみえるようになる。
   寒山[寒山詩]

よい内容である。
定に入らば誰か聴かん 風外の馨を、
詩を作らば時に訪(とぶら)わん 月前の僧を。
             [十蒸]
ひとたび禅定(坐禅の三昧境)に入るならば、(中略)風なしに響きわたる馨子(括弧内略)の音さえ聴くことができる。また詩を作るならば、(中略)僧は敲く月下の門」もどきの句(中略)ぐらいは即吟できる。なお「時訪」は、良寛の詩「五合庵」の「(前略)時に敲く月下の門」も踏まえている。
   夏目漱石[漱石詩集]

良寛と寒山慧能漱石と似た所あり似た詩を作る
(終)

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