二千三百十九(和語のうた)破調
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月二十八日(日)
テレビのNHK短歌を二回乃至三回観た。一回目は万智さんが選者の十四日、確実二回目は本日二十八日、不確実二回目は二十一日で観たかどうか不明だ。おそらく選歌した歌を紹介する部分だけ観たと思ふ。
連続した理由は、破調が無い。破調があると、それだけで観たくなくなる。今日の歌は、話し言葉と記号を多用し、今までなら批判対象だ。それなのに気にせず観たと云ふ事は、破調がすべての原因だ。
字余りや字足らずの歌醜きは よろづ葉からの秋津洲大和の国の慣はしにして

反歌  長き歌偶に作るも字余りをせずにときどき枕詞を
長歌を作る人が少ない。短歌を作るには、長歌や旋頭歌、仏跡石歌、更には不定形文も、普段から自在に作ることだ。枕詞も偶には使はう。
さて、破調を批判した小生が、破調の長歌を作ってしまった。さては認知症の始まりか、は冗談である。同音が二つ連続、或いは同じ母音が三つ連続、助詞が四音目と八音目。この三つに秘密があると思ふ。

五月一日(水)
破調が嫌ひな理由は、黙読すると醜い。それは母音を含む場合も同じだが、万葉集の時代から許された規範なので母音を含む場合は、表現力を高めるために、小生も用ゐてきた。
ここで、先日の「心にゆとりが」を、醜く感じない理由を試してみた。すると、引いて(引き延ばして)読むと醜くなる。母音を含む場合は、引いて読むと醜く無くなる。なるほど吟詠は大切だった。牧水の云ふことは正しかった。
そして明治以降に、破調の歌が多くなった理由も、引いて読まないためだ。西洋詩は引いては読まない。それを真似したのだから、破調は西洋猿真似による弊害だった。

五月二日(木)
引いて読むと、和語が断然佳い。小生がときどき和語のみの歌を作るのは、明治以前の名残りを伝へようと思ふためだ。引いて読むことはまったくへ考へなかった。
中学や高校の授業では、歌は普通に読むことで教はった。だから歌を作る時も、他人の歌を鑑賞するときも、普通に黙読をする。今後、引いて読むことでどう変はるか。これは壮大な試みである。
長く読む引きて読むこそ昔から歌の読み方 明治から歌も普通に読むことを国語の授業で習ふため これから試す引きて作るを

反歌  牧水は引きて作るがそのほかは絶えたか引きて作る歌びと(終)

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