二千三百九(うた)凝然「八宗綱要」鎌田茂雄全訳注
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月二十日(土)
鎌倉時代に華厳宗の僧凝然の著した「八宗綱要」を読んだ。良寛を調べる為に「天台學探尋」を読み、その姉妹編「新・八宗綱要」を読み、更に「八宗綱要」を読んだ。つまり出発点は良寛であった。原文は省き、訳文のみ紹介するが、「小乗」は差別用語なので「中期仏法」と直した。「初期」があり、分裂と教義の複雑化が起きた時代だ。
釈迦が入滅してから四百年の間は、中期仏法が盛んであって、異なった見解が相対立し、大乗はその影に隠れて(以下略)
仏滅後、五百年たった時、仏教以外の外道もそれぞれ起り、中期仏法はようやく衰えていった。まして大乗はまったく隠されてしまったのである。

大乗は元から在るが隠されたとするところに、鎌倉時代の思考法が伺へる。
馬(め)鳴(みょう)論師が、六百年になろうとする時、初めて大乗の教えを弘めて、『起信論』などをみみの時著わした。(中略)つぎに龍樹菩薩が六百年の終りから七百年の始めにかけて現われ(以下略)

次に
如来が涅槃に入られてから一千年の間は、大乗の宗義はまだ異なった見解は分れていなかった。その異なった見解が初めて起ったのは千百年たってからであった。

次に中国では
如来の滅後一千年の末に、インドの迦葉摩騰が始めて洛陽に来て、ついで竺法蘭も後から来て(以下略)

このあと日本への伝来になり
百済の聖明王が金銅の釈迦像と(中略)聖徳太子が日本国に誕生されて盛んに仏法を興し(以下略)

このあとは八宗の解説に入る。倶舎宗は
倶舎というのは論の名前である。詳しくいうと『阿毘達磨倶舎』というのである。

アビダルマは有部の論蔵。一部は経部の立場から有部を批判。
次の成実宗は
有部の学者であるクマーララータの高弟であるハリヴァルマンが(中略)一宗を成立させたのである。

そして注目すべきは
梁の三大法師(中略)はみな、『成実論』は大乗であるといっている。
天台智顗と嘉祥吉蔵は二人とも『成実論』を中期仏法と判定し(以下略)

中期仏法と大乗は、日本では戒律が違ふので対立するが、本来は教義の相違程度ではないのか。
八宗の中に、真言宗はあるのに、禅宗と浄土教がない。鎌倉時代はこの二つが出たばかりで、八宗と並ぶところまでは行かなかったためだらう。付属として最後に載る。禅宗は
本より何ものも存在しないことを主張し、煩悩は本来なく、そのまま菩提であるとみる。(中略)教えは文字によることなく、直ちに人心を見て、自己の本性を徹見して成仏することを説いた。

これなら十割賛成である。良寛が、達磨の伝へた仏法が分裂したと嘆いたのはこれではないか。
良寛は 釈迦の伝へた仏法が分裂をして 達磨また伝へ再び分裂を 嘆き詩に詠む 複雑化すれば分裂我が思ひ同じ

反歌  複雑化これが論呼び分裂に単純ならば論争起きず(終)

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