二千三百十(うた)部派仏法と大乗仏法の区分見直しが必要
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月二十一日(日)
凝然「八宗綱要」鎌田茂雄全訳注には「小乗」の語があり、これは蔑称なので小生は「中期仏法」と書き換へた。今回の特集では、この語を「部派仏法」としたが、これは書籍などでよく使はれる語だからである。厳密に云へば大乗各派も部派だから、前回は中期仏法と呼んだ。
世間一般に、部派は戒律に厳しく、大乗は緩やかだ、或いは、部派は自力、大乗は他力だ、と思はれてきた。しかし凝然「八宗綱要」を読むと、鎌倉時代にはそれが誤りだったことが分かる。鎌田茂雄さんは、序章の更に前で
八宗(具体名略)ないし十宗(八宗に浄土教と禅宗を加える)あるのは、人間に対する理解や、解釈の相違からきている。(中略)人間の生存そのものを八つの面からみようとして八宗が生まれたと考えればよい。

とは云へ、鎌田さんにすべて賛成ではない。
人間を現実的な一面で見れば、人間の中にはどうにも救われない人もいる。仏性をもってない人もいるわけだ。このようにみてくると、法相宗で説くような仏性を持たない人(無性有情)の存在も認めざるを得ないことになる。しかしながら人間を理想態からみれば、人間はすべて仏性を持っており、どんな人でも成仏できると考えることも可能である。さらに華厳宗のように、人間を含めた森羅万象のすべてが、仏の光明に包まれて、すべて悟りの世界に生かされていると考えることもできる。人間を現実態でみるか、理想態でみるかによってこのような相違が生れる。

この考へには反対である。現実態か理想態ではなく、努力するかしないかだ。仏性なんてものはもともと無い。努力すれば仏性を生じるし、努力しなければ生じない。
また、鎌田さんは
八宗の順序は、凝然が巻末で述べているように、ただ便宜上このような順序に配列したとはいっているが、やはり浅い教えから深い教えの順序に排列したようである。

として、次の図を載せる。
倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗天台宗華厳宗真言宗
有宗空宗有宗空宗実相宗縁起宗
寓宗独立宗三乗教
(権大乗)
一乗教
(実大乗)
部派大乗
顕教密教
鎌田さんの云ふやうな浅い教へから深い教へではなく、釈尊の教へからの乖離が小さい教へから大きな教へ、が正解だ。あと、この図から分かることは、有宗と空宗で分けたことで、鎌田さんの関心がどこにあるかが分かるが、これで見る限り浅いから深いに並んでゐない。しかし、戒律を守るかどうかや自力か他力で分けないところに、鎌倉時代までは部派か大乗かを分けなかったことが判る。
平安の終はり頃より世が乱れ 戦続きで末法と多くの人が思ふとき 鎌倉仏法現れて 戒律弱く他力に頼る

反歌  鎌倉の新仏法を大乗と多くの人が誤り理解
ここで、寓宗とは他宗に付属した宗派のことで、倶舎宗は法相宗に吸収され、成実宗は三論宗に吸収された。有宗と空宗は、有るのか空なのか。実相宗と縁起宗は、意味不明だ。鎌田さんは、閻魔大王に意味不明の事を云ったと舌を抜かれたであらう、と云ふのは冗談で、物自体か物が生じた過程か。しかし有宗と空宗もさうだが、かう云ふ分け方に意味があるかは不明だ。(終)

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