二千三百五(うた)飯田利行「新訳 漱石詩集」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月十六日(火)
飯田利行さんの「新訳 漱石詩集」を読んだ。第二篇が「新訳 漱石詩集」で、第一篇は「漱石の詩」と題する詩論である。まづ第一篇で
晩年の漱石は、詩人良寛の生き方と詩情に同気相い求むるものが濃厚となる。と同時に、詩集にみるごとく天より賦与された人間性のうち、俗なるものを坐禅によって放(ほう)下(げ)することにつとめた。

漱石が手紙に
「僕は不相変『明暗』を午前中書いてゐます。(中略)毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。(以下略)

小生は前に、歌を詠むことは止観の効果があると書いたことがあった。漱石は漢詩作りで同じことをしてゐた。
漱石は、良寛和尚のように時代に魁(さきが)けて押韻・平仄法にこだわらない新体自由詩(中国では、良寛歿後百年にして文学革命新体詩成る)は是(よし)としなかった。したがって、不特定多数の読者など念頭におかない。(中略)真実の理解者が、百年後に出現するかもしれないと期待していたようである。そのため中国三千年の伝統に則った文語体に依った。

なるほど。漱石の考へがよくわかる。一方の良寛は
多くの他者を期待して、分りやすい口語体入りの詩に依ったというわけではない。古体、古格の形骸化に沈潜しているその臭味を嫌ったまでである。

この本は1994年発行なのでここまでだが、良寛が渡航したため口語入りで押韻・平仄法を無視するやうになったのではないだらうか。

第二篇に入り、松山・熊本時代や英国留学や修善寺大患も過ぎて
結社東臺(以下略)  結社の東台は

で始まる詩について、解説に
太平洋画会の画塾が、私の寓居(東叡山寛永寺の台つづき下谷区谷中坂町五〇琳琅閣)の裏手、善光寺坂の先き真島町にあった。

小生が子供のころ住んだ根津藍染町の家から、谷中真島町まで80mくらいだ。銭湯は真島湯が一番多かったが、六番目が善光寺湯で、善光寺坂の下にあった。懐かしいと云ふ理由だけで、取り上げた。因みに二番目は山の湯、三番目赤津湯、四番目梅の湯、五番目宮の湯。銭湯は多かった。
曾見人間今見天    曾っては見人(じん)間(かん)に見(まみ)え 今は天に見(まみ)ゆ
(以下略)

解説に
漱石は、かつて菩提(さとり)(向上門)を求めて円覚寺の門を叩いたが、今や仏道の堂奥に参じえて、去来(向下門)の庵居生活に自適できるようになった。小説『明暗』に書いているが(以下略)
漱石が傾倒した良寛和尚が、老躯をかり立てて六十五歳から足掛け三年の東北行脚。無事に帰庵したときの詩に、「もし人あって行脚の感想を問うたならば、次のように答えたい。かつて、ひたぶるにさとりを追い求めていたことはあるが、そのような重い荷物は、錫杖の先に掲げて用なしにしてしまったので、脚(あし)下(もと)が急に軽くなった」と。さらに驚くべきことは、このたび東北地方を歩いてきたが、(中略)一歩一歩が極楽浄土を旅するようで短い詩すらもできなかったといった五言絶句を詠んでいる。
漱石も(中略)このように悟境に遊化した達人の詩は、限りなく美しい。

悟りを目指さないところに悟りがあると云ふのは、小生の持論でもある。その次の詩は
絹黄婦幼鬼神驚    絹黄婦幼に 鬼神驚く、
(中略)
不依文字道初清    不依文字にして 道初めて清し。

解説に
漱石は、不依文字の真義を理解しようとならば、只管打坐に徹してみよ。(中略)良寛和尚も、不立文字の禅を詩偈を通し文字芸術の浄土を建立している。

不立文字平仄のため不依文字に 良寛漱石並べるは僧と俗とを平等に 利行師が持つ良心を見る

反歌  利行師の良寛漱石読解に文学坐禅良心を見る(終)

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