二千三百七(うた)1.メモ書き歌(板橋駅近くで仕事)、2.狐塚通り
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月十七日(水)
きつね塚 小さな道に食堂や小売店など点在の 昭和の香りやや残す すべてではなくやや残す道

反歌  埼京線かつて赤羽池袋三つ走りて終はるの名残り
赤羽線の沿線は、小さな路地が多かった。その前は、山手線の西側の駅も小さな路地が多かった。それは池袋も、例外ではなかった。
本日は仕事のあとに梶原へ三十分で移動する ゆとり無き昼そのあと寄席へ

反歌  浪曲と講談聴くを楽しみに今日は若手の落語試しに
ここまで寄席へ行く前の為、梶原いろは亭鑑賞記とは別の特集とした。
下町の香りを残す街に建つマンションに住む人たちは 下町及び山手の二つの人が混ざらずに住む

反歌  駅近く下町型と違ふ人山の手更にそれとも違ふ
昔の都会は、庶民のすむ下町と、上流の住む山の手に分かれた。その後、一億総中流と呼ばれ庶民が中流となったが、プラザ合意以降は社会が崩壊した。これには商店街の崩壊と、下町山の手の崩壊を含む。

四月十八日(木)
狐塚(きつねづか)とは、狐の棲む丘のことで、それが地名になった例が全国にある。本日は地図を見て、二つ発見があった。一つは、板橋駅近くのきつね塚通りの始まる丁字路は、旧中山道だ。旧中山道が板橋駅の少し北側にあることを、完全に忘れてゐた。二つ目は、国道十七号を超えた先もきつね塚通りは続き、下り坂なので狐塚の坂と呼ぶ。区役所の建てた案内柱があるし、道路にも狐塚の坂と書いてある。
道幅は、板橋駅側より狭く、これが江戸時代からの幅なのだらう。300mほど先で終端になる。
狐塚 かつて狐の棲む丘は 明治末より少しづつ民家が増えて跡形は無し

反歌  狐塚調べてみると新しき事次々と興味は尽きず
旧中山道から国道までは「きつね塚通り」で商店街、国道から先は「狐塚の坂」で、商店は無し。平仮名と漢字は、商店の有る無しに関係するやうだ。或いは、商店会と区役所か。
明治時代の地図を見ると、狐塚通りの起点と終点は、今と変はらない。板橋駅から遠い側を終点とすると、終点の先は浄水場とあり、後に陸軍の火薬工場になる。近くに火薬工場の浄水場があり、戦後は東京都水道局に移管された後に廃止になった。今はマンション等になり、狐塚通りの延長がマンション内に50mほどある。(終)

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