二千三百一(うた)大久保良峻「新・八宗綱要」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月十三日(土)
「新・八宗綱要」は「天台学探尋」の姉妹本として、先に出版された。そのため「新・八宗綱要」も読んでみた。第三章天台宗は大久保良峻さんの筆で
『摩訶止観』の序文には金(こん)口(く)相承と今(こん)師(し)相承(中略)が記されているが、金口相承は摩訶迦葉より師子比丘に至る二十三人乃至二十四人の相承のことで、そこで断絶してしまうため智顗に繋がらない。そして、今師相承は龍樹・・・慧文-慧思-智顗というもので、これにより中国天台の第一祖が慧文、二祖が慧思、三祖が智顗という相承説も立てられることになる。
釈尊に弟子は多く、それぞれが伝へたのだから、師子比丘で断絶はあり得ない。また今師相承は龍樹から慧文の間が不透明だ。中国の天台宗は、教義が複雑なことが欠点だがそれを除けば尊敬に値すると思って来たが、意外だった。このあと第三章は、五時八教や仏身論などまさに複雑な内容になり、明治以降の大乗非仏説が広まった今となっては無意味になった。
小生が天台宗に注目するのは、止観を修行の一部とすることだ。禅宗みたいに「止」を全部(或いは読経や作務や経典古文書学習があるから大部分)とすると行き過ぎだから、釈尊の時代に行はれたであらう止観を一部とする天台宗は注目し、しかし日本の天台宗は比丘戒の軽視と密教流入で参考にはならないとしてきた。
第六章禅宗は伊吹敦さんの筆で
釈尊が(中略)「以心伝心」によって摩訶迦葉に授けたことに始まり、(中略)第二十八祖の菩提達磨に至り(中略)自分にまで及んでいると主張する。(中略)こうした神話によってしか仏教たることを主張できなかったということは、禅がいかに仏教として得意なものであったかということを如実に示すものといえる。
それは天台宗の二つの相承も同じだ。
経典の真意を究明しようとする姿勢は稀薄である。そこでは明らかに自己の思想が経典に対して優位に立っているのである。そればかりか、馬祖以降の禅では、経典に対する敬意それ自体が問題とされた。
さう云ふ状況があるので、良寛は渡航して天台からも影響を受けたのでは、と考へてしまふ。
師承関係の点で後の禅宗と繋がることが確認できる最初は(中略)東山法門の人々であるが(中略)彼らが達磨の伝統を継ぐものであったかどうかは確認できないが、少なくとも一つの点で決定的な相違を認めることができる。すなわち、達磨や慧可らが主として遊行生活を送ったのに対して、彼らは一箇所に定住したため、非常に多くの弟子たちを養成することが可能になったということである。
良寛は遊行生活を行ったが、どこで習ったか。
慧能が弘忍に入門した後、脱穀作業に携わるという場面があるが、(中略)あまりに多くの人々が集まったから、従来のように托鉢によってその生活を支えることは不可能になり(以下略)
これも良寛は托鉢で行った。
元以降は、浄土教を取り入れた「念仏禅」の傾向が強まり、「教禅一致」が主流となり、(中略)これを「発展」と呼びうるかどうか(中略)少なくとも「禅」を自らの体験と思惟のみを根拠に真実の価値を探求しようとする思想運動として捉えるのであれば、その命脈は大慧宗杲を最後に断たれたと言えるのではあるまいか。
念仏禅は、江戸時代に黄檗宗として日本に入った。良寛の修行した円通寺は、黄檗宗の影響もあったが、良寛自身に黄檗宗の影響は無い。日本に入った黄檗宗を見る限り、「大慧宗杲を最後に断たれた」は大袈裟だ。そもそも「禅」は思想運動ではない。
今回二冊を読み分ったことは、良寛がもし渡航したとすれば、当時は禅宗だった天台山の影響を受けたのだらう。実際に天台山へ行ったか、その影響下にある離れた地の寺院へ行ったか。
その前に読んだ漢詩二冊からは、良寛が渡航した可能性は高い。漢詩の専門家二人が渡航説なのは当然だ。
良寛さん不明期間はどこへ行く 口を閉ざして遷化した 残した詩から答へを探る
反歌
良寛さん漢詩の中に潜ませた清国行きは有りや無しやと
反歌
良寛さん父は以南か誉章(たかあき)か歴史家含め楽しく探す
最初に答へを決めてはいけない。それでは良寛さんと正反対になってしまふ。中立で探すと楽しい。(終)
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