二千二百六十三(うた)最新の歌論(古今作歌法、俗語、掛詞)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月八日(金)
一葉の歌集を読んで気付いたことがある。古今作歌法(旧派は失礼な言ひ方なので古今と呼ぶことにした)は、部品を組み合はせて作歌すると新派(新派は失礼ではないのでそのまま)の人たちは云ったが、古今作歌法は美しい語を使ふため部品を組み合はせたやうに見えるだけではないか。
別の見方もできる。古今作歌では、詠む範囲が限られるため、結果として語彙が似るのではないか。
それに対して、新派は語が自由だし、題材も自由だ。しかし美しさが無い。

三月九日(土)
新派で美しいのは、古語を用ゐたときと、景色を描写したときだ。精査すると、美しい古語を用ゐたときと、美しい景色を描いたときだ。最近の歌で心配なのは、微妙な心の動きを描いたものが多い。
万葉の恋歌は言霊、古今の恋歌は隠喩や序詞による美しさ。あと貴族たちが歌会などで、恋愛劇を演じる。あれは劇であって実際ではない。架空の美しさだらう。
言霊と隠喩序ことば恋愛の架空劇にて美しさかも


三月十日(日)
最近の歌でもう一つ心配なのは、俗語の氾濫だ。俗語は品が無い。最近遭遇した歌に「たぶん」「言ってた」があった。どちらも品が無い。前から話し言葉では駄目だと云ってきたが、話し言葉の歌に歩み寄りできないかと、前回の歌論(八百一号記念特集)で「文章の中に引用するのであれば可能だ」と書いた。その場合も、品の無い話し言葉では駄目だ。
五年以上前だらうか、芥川賞に選ばれた人が「マジかよ」と言った記事を読んだ。そんな下品な言葉を使ふ人は、章を取り消すべきだと思った。その後考へが進化し、その人は嬉しさのあまり云ったにすぎず、活字にされるとは思はなかっただらう。活字にした記者が悪い。
品の無い言葉で歌を詠むはいけない 美しい言葉使はう文芸者なら


三月十二日(火)
掛詞は、使はうとして使ふのではなく、自然発生ではと思った。小生の「朝顔に道を取られて車たちいざ言問はむ朝の爽やか」を作ったときだ。複数の車を表すので「車たち」と書いたが、車両通行止めなので「車絶ち」にもなる。普段は掛詞を使はないが、たまたま出来てしまった。
掛詞元はたまたま出来たもの後は技巧に意図して入れる
(終)

「和歌論」(百七十四)へ 「和歌論」(百七十六)へ

メニューへ戻る うた(八百二)へ うた(八百四)へ