二千二百四十九(和語のうた)島内裕子「樋口一葉の世界」(その二)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
二月二十四日(土)
前回で気になったことが二つあった。一つ目は、一葉と渋谷三郎の婚約を破棄したのは、三郎、或いは一葉の母と、矛盾する二つが書いてある。二つ目は、小生がこの本に批判的なのは何が原因だらうか。そこで、再度読むことにした。
一つ目については、仮説を立てた。父の死後に三郎が破棄したが、一葉が有名になって再び結婚を言ひ出したのではないか。これは再度読んでみて、半分当たってゐた。半分と云ふのは、小説の連載が新聞でも始まったが、有名になる前だった。
第二章の「萩の舎」へ入門する前までに、父の死と三郎の婚約破棄が書いてある。その10行後に、七年後に検事となった三郎が何度か訪れて、三郎の側から結婚の打診があり、それを母が断ったとある。第七章に書くべき年代の出来事を、第二章に載せて分りにくい。
しかも
七月に則義が死去すると、三郎は婚約を破棄した。
このような経緯はあったが、その後も樋口家と渋谷三郎との交流はあった。

七年後に訪れたなら、交流があったとは云へない。途中を書かないのは、不十分だ。そして再度訪れた話へ続くから、死後まもなくのことだと、読者は思ってしまふ。
父が逝き契り破れた一つ葉は 復た現れた三郎に心非ずは 物語り新しき道進むため桃の水へと心は移る

反歌  再びの嫁入り話断るは一つ心の母と一つ葉

二つ目は多数ある。まづ(1)明治期に出版された三つの一葉全集のうち、二番目を取り上げて二頁半ほど書いたあとに
これは、厳密に言えば二番目の全集である。

半年の差があるから、厳密に言はなくても二番目である。厳密とは、奥付の出版日は数日後だが流通したのは早かった、或いは出版日は後だが世間に知られたのは先だった。そんな場合に使ふ。今回は、厳密でも何でもない。そもそもこんなことは最初に言ふべきだ。変な場所で云ふから読者の意欲を損ねる。
(2)別の例では、
以下、明治十三年まで、年譜風に年号で区切りながら、略述しよう。(以下略)

(出来事を1頁半書いた後に)
年譜風の記述は、ここで一旦中断して、一葉自身の一葉自身の回想を読んでみよう。

読者を馬鹿にしてゐるのか、と言ひたくなる。年譜風の記述が終はることは見れば分かる。例へば「ここに書いてある文章は日本語である」と書いたら「見れば分かる」と読者は怒り出すだらう。ここは前半を削除すべきだ。
(3)第四章では
明治二十三年一月十六日は、野尻理作が訪ねて来て一泊したことや、虎之助の帰宅が遅かったこと、(中略)などが、短く書かれている。ちなみに野尻理作は、父則義が生前に世話をしていた山梨の同郷人である。父の葬儀や仏事の時も手伝っている。樋口家とは、いわば親戚付き合いの仲であった。

前半は良い情報である。しかし「いわば親戚付き合いの仲であった」は余計だ。島内さんの個人的感想を入れてはいけない。
(4)同じく第四章で、長兄について
病弱だった泉太郎は、その後、三箇月ほど熱海で保養していた時期もある。ちなみに川上眉山(一八六九~一九〇八)の小説に、保養地で出会った男女の交流を描いた『書記官』(掲載誌名略)がある。

『書記官』は泉太郎がモデルなのかどうか、或いは確証は無いがさう思はれるのかを言はないと駄目だ。単に小説名を挙げると、知ったかぶりにしか見えない。余計な情報を書くと、読書意欲を妨害する。
この本は第四章までに、四つの欠陥がある。

二月二十五日(日)
第四章までで役立つ内容を以下に紹介したい。まづ佐佐木信綱が「一葉歌集のはじめに」に
(前略)予いまだ幼かりし頃、こゝかしこの歌会に臨みしかば、中島歌子ぬしの会にも屡屡(しばしば)ものしたりき。

(その一)で「佐佐木信綱と一葉が、松永家で遭遇した可能性もなきにしもあらず」とあることを批判したが、こちらを載せればよかった。
「萩の舎」では、和文の文章を書き綴る「作文」も教えられていた。

これが後の「たけくらべ」の礎となるが、それだけではなく歌を詠むにも必要である。歌を詠むには普通の文章力をつけるべきだと、小生も主張して来たが、中島歌子も同じ考へだった。
萩の舎に入門し、半年後に発会と云ふ発表会があった。皆が晴れ着で参加する中に、一葉は古びたものだった。そのときの日記
いとど恥づかしとは思ひ侍(はべ)れど、此の人々の綾錦着給ひしよりは、我が古衣こそ、なかなかにたらちねの親の恵みと、そぞろ嬉しかりき

は名文である。発会は一葉が優勝した。そのときの歌は
   月前柳
打ちなびくやなぎを見ればのどかなるおぼろ月夜も風ハ有けり

これは優れた歌だ。
泉太郎の病死について、一葉は
我が兄泉の君、世を早くし給ひしより以来、袖の涙、乾く時なく(以下略)

その十行後に
まして、育てし父母の情、知るべし。

長兄の死後は、一葉が戸主になった。しかし隠居した父が存命だから、まだ安心だった。そして父が亡くなったとき、一葉に戸主の義務が回ってきた。一葉が、父の死後に兄の死を書いたのは、それが原因ではないだらうか。
家の主母と妹背に負ひて皆で生きるは沈むが多し

第五章からは物語(小説)へ進出する内容なのでこれで終了するが、ここで印象に残ったのは萩の舎が隅田川の門人の家で花見を催し、そこへ行くまで妹を誘ひ
いつの間にか、汽車が通り、区役所や郵便局なども建ち(中略)その後、隅田川に沿って、白髭神社や木母寺の梅若塚のあたりまで一緒に桜を見て、長命寺の桜餅を母への土産として、妹は帰途に就いた。

隅田川桜並木と 白髭と梅若を見て桜餅 姉妹はここで分かれる

反歌  花見前母への土産桜餅土産話もまた多くあり(終)

追記二月二十六日(月)
ここに追記があったが、更にもう一つできたため、追記編として独立した。

追記三月一日(金)
二つの追記を独立させたが、更にもう一つ発生し、これは本文と関係が深いので、ここへ載せた。
「明治の文学17 樋口一葉」(坪内祐三、中野翠 平成12年)の年表によると
明治二十二(一八八九)年 十七歳
三月、父・則義が事業に失敗し(中略)七月父・則義夫妻を残し死去。(中略)破産を知った渋谷三郎は婚約を破棄。

婚約破棄の事情がやっと分かった。その三年後に渋谷三郎が現れ、その翌月母が断る。つまり「交流はあった」とは言へない。

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