二千二百二十六(和語のうた)最新の歌論「二つの事柄を述べる歌」
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月三十一日(水)
一年ぶりに「萬葉集講座」(第一巻から第三巻まで)の最後に記したが、一つの歌に二つの事柄を詠んだときに、二つの関係性は美しさだ。この考へを二日間持ち続けた。
序詞は前に、復活させたいものだと思った。しかし、その後は進展が無い。だが二つの事柄の関係性が美しいとなると、序詞の美しさはそこから出るのだらう。
まづ小生の作った歌のうち、メモ書き歌で当てはまるか調べた。二つの事柄を述べた歌は意外と多い。しかし、一つの事柄のみの歌と、美しさに差は無かった。メモ書き歌で調べたのは、普通の歌は散文に埋め込んであるため、それだけで二つの事柄を持つ。散文の補完機能と歌である。
この時点で、二つの事柄の関係性が美しいとする歌論は、二日間で終了するかに見えた。しかしやはり有益である。万葉集や古今和歌集を読むときに、この歌論で詠まれた歌を見逃さずに済む。
よろづはやのち歌にても 美しさ見逃さずして一つには 二つ並べる美しさかな

反歌  歌枕または前にて後ろとは異なるを詠む美しさあり
反歌  歌枕つまり序(はしがき)そのほかに前と後ろを並べるがあり
第三巻の後方にある「万葉集の序詞」では
「古の人多く本に歌枕を置きて、末に思ふ心を表す」(新撰随脳)、「昔の歌は一首のうちにも序のあるやうに詠みなして、をはりにその事と聞ゆるなり」(八雲口伝)

と、平安時代の歌学者が序詞をどう呼ぶかを記す。

二月一日(木)
今回の歌論は「萬葉集講座」第三巻に載る「万葉人の美意識と言語」に、美しさの型を九つ挙げ、そのうちの一つ「二つの景の順接による構成」だ。まづ
二つの事実の同時的存在ということが(中略)万葉人はそこに美を見出したのである。

として
秋風の日にけに吹けば水(みづ)茎(くき)の岡の木の葉も色づきにけり
(前略)景Aと(中略)景Bがあるだけであって、情を直接抒べることばはない。しかし(中略)ある情趣を表現しえている。

ここまで同感。
時雨の雨間無くし降れば真木の葉もあらそひかねて色づきにけり
夕凪(なぎ)に漁(あさり)する鶴潮満てば沖波高み己が妻呼ぶ

これらも同感。しかし更に例示する次の歌は、賛成ではない。
鶯の木(こ)伝(つた)ふ梅のうつろへば桜の花の時片(かた)設(ま)けぬ

前半と後半が無関係ではない。尤も、全ての歌が前半と後半は時間関係だと云へば、それはその通りだが。「万葉人の美意識と言語」では
これらの歌の二つの事実は条件や因果関係ではなく、たんなる並立だといったのであるが、実はそれはたんなる並立というよりは、それはそれぞれ前景、後景という立体構造で(中略)その立体構造のゆえにそれは美となったのである。

この結論には、賛成である。
次の「二つの景の逆接による構成」も、原理は同じである。前半と後半の一方が非定型だったり、前半で鳥が鳴き後半で静かだと云ふやうな内容である。
二つの型について、巻七と巻十の短歌のうち雑歌について、順接二十二、逆接十三。両巻の雑歌五百八十二首のうち、相聞を主題とした四十、七夕歌九十六を除くと総歌数四百四十六首。8%になる。(著者自身は、全体が一文をなす十六首を含めて、全体が景をなす歌は10%を超えるとしてゐる)
前とあと周りを各々含む歌 順(したが)ふまたは逆(さから)ふと 歌の枕も亦美しさ

反歌  周りのみ心を入れず二つありだがその奥に心を籠める

二月三日(土)
ずっと後ろの章へ行き「万葉集の枕詞」に
枕詞が(中略)記紀・風土記などにも、とくに地名・神名に連なる修飾句として多く見えている(以下略)

枕詞は言霊に繋がるとして、これは貴重な情報だ。
「万葉集の序詞」では
序詞は即境的素材を取上げるのが本来のあり方で、(中略)しかし歌が生活の場を離れて独立すると共に、序詞の素材は陳思部との比喩的・象徴的関係によって選択されるようになる。つまり(中略)即境的発想法から抒情的修辞法へと変化を遂げたのである。

若い人たちが恋愛歌を作ると、年中無休発情期女の与謝野晶子みたいに直接的になりがちだ。抒情的修辞法の歌を学ぶとよい。叙景歌や、抒情が背後に隠れた叙景歌のときは、即境的がよい。
しかし序詞は、結びつける語を探さなくてはならない制約があるため、二つの事柄を詠むほうを普通に、稀に序詞を使ふのがよいのではないだらうか。(終)

「和歌論」(百六十二)へ 「和歌論」(百六十四)へ

メニューへ戻る うた(七百六十五)へ うた(七百六十七)へ