二千百七十一(和語優勢のうた)古隅田川
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月二十二日(水)
今月は、青砥、堀切に続き、葛飾区内へ行く用事が三回あった。本日勤務した地域はわずかに商店が残る。
街中に商ひ店があるところ 街が外から内となり 街に賑はひいや現れる

反歌  今時は商ひ店の街寂れ家のみの街固く冷たし
長歌に「いや」を使ったものは多い(例、いや遠長く、など)。小生も使ひたいと予て思ってきたので、今回使ってみた。

帰りは古隅田川に沿って、綾瀬駅少し先の線路と交差する部分まで歩いた。前回地名が小菅から綾瀬に変はる為、道を間違へたことに気付いた地点が、出発点になった。
葛飾へ月に三つ目勤め来て 終へて立ち寄る足立との古隅田川境にて 武蔵下総国も隔てる

反歌  下総と武蔵を分かつすみだ川伊勢物語東下りに

京都からの旅人は、関西から舟で上総か、それとも相模まで陸路で船か、それとも陸路で武蔵か。
都より東へ舟で 上総へとおかに上がりて下総へ 更に進みて武蔵の国か

反歌  相模まで徒ちか馬にてそこからを舟で上総へその路もある

あづまは、だんだん東へ移動した。
吾妻はや東の口は遠江または富士の嶺或いは箱根


今の隅田川の上流は、新河岸川だ。しかし昭和四十年くらいまでは、鐘ヶ淵まで荒川だった。今の荒川は、荒川放水路と呼ばれた。
隅田川新河岸川の流れ受け 江戸の入り江に注ぐとも 元は利根川枝分かれ綾瀬小菅の境流れる

反歌  隅田川少し前まで荒川が鐘ヶ淵にて川の名変へる
なぜ鐘ヶ淵まで荒川で、ここから下流が隅田川なのかが、今回分かった。古隅田川がここで合流した。
古隅田川は、太いところで幅2m、狭い所は50cm程度だ。古くは大河だったが、利根川が太平洋に注ぐやうになり、細り蛇行した。綾瀬付近の蛇行は、そのためだ。
関東平野が広いのは、利根川が土を堆積させたのが原因との説明板に、頷いた。
利根川を銚子の先へ導きて 武蔵下総大水を防ぐと云へど 元の川細り曲がりて蛇曲がり もはや山から土運ぶ無し

反歌  おかの揺れ多くの人が亡くなるは海への土に江戸作りたか
幕末の地震と関東大震災で、甚大な被害を出したのは、家康が悪い。江戸では、井戸水が塩辛く、そのため溜池を使ひ、後に神田上水や玉川上水を掘削した。これも家康が原因だ。

堀切の帰りに小菅に寄るまでは、古無隅田川の名は知らなかった。古利根川と元荒川は二十歳くらいから知っていたのと対照的である。そして小菅神社について、高速が上を走るので水神社を思ひ出すと書いたが、本日調べるうちに水神社があるのは鐘ヶ淵だと判った。(終)

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