二千百五十(うた)蕨のマンション
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月六日(月)
先日、蕨のマンションに勤務した。途中、関東マツダの南浦和店がやや南方へ移動し、浦和南店と改称すると貼り紙がある。南浦和と云ふと、駅の近くを連想するし、地名の南浦和は駅の東側だ。この店は国道沿ひで駅からも地名からも少し離れてゐるためだらうと、このときは考へた。
国道の中山道を南下して 昭和の香り漂はすラーメン店を通過して 蕨の現場無事到着を

反歌  近くには市民センターその前は昔馴染みの自転車通り
蕨や東京方面に行く時に、自転車で常用した小道だ。
外環が出来て裏道分断し 市民センター前の道 行きにくくなり通ることなし

反歌  今にては市民センター前の道一時停止が多く不便に
かつては自転車で気軽に走れたのに、一時停止の標識が多くなった。
近くにはかつて東急リネンサプライ 火災にてなじみペリカン石鹸も無し

市民センターは、インターネットで調べるとコミュニティセンターと云ふらしい。カタカナ語にするから記憶に残らない。ペリカン石鹸は、浦和へ引っ越す前から、国道沿ひで知ってゐた。東急リネンサプライは、引っ越した後に自転車に乗り在る事を知った。インターネットで同社のホームページを見ると
1962年に東京都永田町の東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)内で産声を上げる。埼玉県蕨市と神奈川県綾瀬市に、リネンサプライ工場を建設し、操業をスタート!1964年の東京オリンピックで建設された多くのホテルにサービスを提供し、日本のリネンサプライ事業の普及に貢献

とある。帰りに国道を見ると、デンキチの旧店の隣が、ペリカン石鹸跡にラーメン店と往路で見たマツダ浦和南店((裏側のマルエツとトイザラスも工場跡)。その隣が北五公園とデンキチの新店だ。
デンキチの新旧店舗に挟まれる マツダの浦和南店 垂水の上か蕨市へ 南浦和の名前を変へる

反歌  蕨市は浦和の南それにより浦和南は矛盾生ぜず
これ以外に、この辺りの思ひ出は
国道は今ほど混まず快適も だが裏道で戸田橋へ出た思ひ出も 今は昔に

反歌  その昔戸田橋の北両側に農地が続き蕨に人家
反歌  蕨には人家の先にペリカンの工場があり臭ひ漂ふ
反歌  戸田橋の北は信号変はるときベルが鳴るので新鮮素朴
反歌  信号のベルは蕨と戸田のみでそして信号数が少ない
戸田橋から浦和との市境まで、信号は三つ程度だった。だから、戸田橋から浦和市境まで自転車のペダルをこぎ続けることもあった。
戸田橋の架け替へにより四車線 だが上り下り作られて 押して階段時間が掛かる

反歌  戸田橋は元は二車線歩道無し歩行者にとり落ちつかぬ橋
反歌  浦和から鷺山までの道もまた二車線のみで落ち着かぬ道
反歌  旧道の中山道も歩道無しだが落ち着くは車少なし(終)

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