二千八十八(うた)文明編「齋藤茂吉短歌合評 下」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月十日(日)
「齋藤茂吉短歌合評 下」では、もはや文明が合評に参加することはない。これは「上」の後部でも同じだった。歌集「白桃」では
このゆふべ労働(はたらき)びとのひとつらは首(かうべ)をあげてかへりくる見ゆ

について評者の一人は、はたらきびとについて
子規の「文くばり人」などの造語のやり方にならったと思うが、作者は何度も繰り返して使っているのだから自信があったのであろう。しかし何だかよそよそしい響きがある(以下略)」

など、他の評者を含めて点数が辛い。小生は、和語のみの歌で点数を高く付けた。
わが眠る枕にちかく夜もすがら蛙(かはず)鳴くなり春ふけむとす

小生は高得点。評者は、高くも低くもなし。
左千夫忌で
くれなゐの牡丹の花は散りがたにむし暑き日は二日つづきぬ

これについて
「君がをしへ受けつるものも幾人(たり)か既に身まかり時ゆかんとす」外一首が同時に出詠されている。

とある。茂吉と左千夫の関係が一時微妙になったが、不仲になったのではない。戦後、不仲になったやうに歴史を捏造する茂吉の関係者には困ったものだ。

九月十一日(月)
マルクス死後五十余年になれるまに幾度にも幾度にもなりて渡来したり

評者たちは、幾度にも幾度にも、に触れた人が多い。昭和八年はマルクス死後五十年なのに五十余年にした理由を「語気、語調」としたものもあった。それより小生は、大幅な字余りが気に掛かる。これだと歌ではなく、完全な詩だ。少し先に
わが心に何のはずみにかあらむ河上肇おもほゆ大塩平八郎おもほゆ

茂吉はアララギに、大塩を
「短期で、憤慨家で、先づ世話焼気質」だとし、「何しろ大塩には洋々たるところが尠
(すくな)い。丁度このごろの私のやうだ」
と書いた。ここまで来ると、茂吉は歌から詩に転向したのかと思ふ。しかしその次の
谷汲の苔よりいでて砂ながすいまだかすかの水なりしかば

のやうに美しい歌も作る。谷汲は地名。
このあとも、こんな感じで八つの歌集を進む。今回は、文明の歌論を探す事が目的のため、これで終了としたい。
文明の歌の論では万葉と縁が遠いも 子規左千夫万葉主義の人たちの恩を忘れずその名高める

反歌  赤彦は短命茂吉長生きし万葉主義の論を進める(終)

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