二千六十四(うた)文明「羊歯の芽」を読んで
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月十二日(土)
一九八四年に出版された土屋文明「羊歯の芽」は三つの章から成る。第一章は幼少期なので省略し、まづ第二章「信濃の六年」(一九七七年発表)を紹介したい。
明治四十二年に、私は当時の中学校を卒業した。(中略)その場のなりゆきで、私に何の目的もあったわけではない。父は半農半商の生活であった(以下略)

後年、私大文学科の入試口述で或る受験者が
父子二代の文学に憑(つ)かれた、文学陶酔患者かなと、その長い口述を聞いた。そして私自身が、中学卒業時に同じ症状であったなと思い出したのである。

これだけで、文明が左千夫に出会ふまでがすべて判る。
伊藤左千夫先生のところへ行き、牧夫として働きながら、文学修行が出来るかどうか。そんなことまでは、考える暇もなく、中学在学中からの村上成之先生の温情にすがり、懇願して上京し(中略)牧舎内外での仕事は、先生が気をくばられたとみえ、決して苦しいものではなかった。

卒業のあとは、赤彦の紹介で諏訪高等女学校に就職した。師範学校の口もあったが、とても務まりさうにないと女学校にしたとのことだった。就職が決まったあと、築地の軍大学校で臨時雇用の仕事があり、そちらがよいと父親に相談したところ、赤彦に頼みながら辞める不義理はしてはいけないと云はれ、諏訪に赴任した。
あるとき、住みこみ老夫婦の用務員のうち、爺さんが急死した。
当時は上諏訪から、今は市内になっている対岸の村へは、何の交通機関もなかった。七、八キロなのであろうか。夕暮れの道を尋ねて行った。(中略)縁者達は明日舟で、上諏訪の川岸まで迎えに行くから、そこまではそちらで世話して欲しいというのであった。(中略)翌日、授業の終わるのを待って、(中略)川岸に柩を下ろして待っていると、舟は湖水の方から溯って来た。

これは大正時代だけの話ではない。諏訪では、今も続く。と云ふのは勿論冗談である。その後、校長が視学として県に転出し、文明が校長に任命された。そして大正十一年に、諏訪から松本に転任した。
そうしている時に起こったのが、川島芳子の事件である。愛新覚羅の一族の王女で(中略)東京の学校から転入学していることは、前年の新聞記事となったので、私も知っていた。私が赴任した時には、長期欠席で、東京に行って居るぐらいしか、職員達も知らなかった。(中略)川島氏は大陸浪人といわれるような人々に近いのではないかと言われていたが、温厚篤実な人として郷党には重んぜられていたようだ。

ここまでが序章で、これからが本章である。
その時、県から報告を要する一つの照会があった。外国人が在学するならば、その国籍、その他幾つかの件についてというのであった。(中略)書記が学籍簿を調べたが、(中略)外国籍か、川島氏の家族籍か、何の記載もないというのである。(中略)どのくらいの日数か(中略)保証人が、東京へ照会しても何の返事もありませんから退学にしますと申し出たので、県の方へは在学者なしと報告した。

これだと、戦後に蒋介石の国民党政府が川島芳子を死刑にしたのはやむを得ない。日本国籍ではなかった。
これを厄介払いであったと感じたのは職員及び父兄の大多数であったらしく(中略)人々の話を聞くと、乗馬服で登校することがある。(中略)その中に次第に勝手な振舞をするので生徒もいやがる者が多くなり、父兄からは学校の放任について苦情も来たという。

これで解決したと思ったところ
九月になって、前の保証人から、川島氏が松本へ帰ったので、芳子を再入学させて欲しいという申し出があった。(中略)前学年の試験も受けず、今年一学期も欠席になっているから(中略)学校の指示通りの学級に入ることを承知の上で、再入学願を提出するよう申し渡した。
このいきさつは、新校長は川島の入学を拒否したとして(中略)地方新聞ばかりでなく、東京の新聞のコラムにも「長野県松本に外国人は入れぬという野蛮なる女学校長ありその名は文明」と出るようになった。おかげで保証人も再入学願書を出せなくなったらしい。

その後、木曽への転勤命令に不満を持ち、退職することになる。
文明は文学好きで教員は本気ではなく 赤彦もそれは同じで だが二人教育界を飛躍して 良い方向へ成功の道

反歌  みすずかる信濃で教へその後は歌の道へと二人は歩む

八月十三日(日)
第三章「写生から出て写生まで」では
中学四年生の時(明治四十年)であった。新任の、取りつきにくいような風貌の国語教師が、我々の国語の担任になった。その教師から突然に「長さ一町の間を写生せよ」という作文の宿題が出た。(中略)私はその頃「ホトトギス」を町の店で毎月買って居た。「長さ一町の間を写生せよ」は、「ホトトギス」の二月許り前の、募集写生文の課題であり(以下略)

これが村上先生との出会ひであった。その二ページ後では
昭和八、九年頃になって(中略)鶴見臨海鉄道という、当時としては新しい工業地帯を見ることにして(以下略)

三十年前に、小生は結婚をして鶴見に転居した。その少し前に妻はまだ仙台在住なので、母とともに鶴見で買ひ物をした。駅西口ビルで母が「鶴見臨港鉄道と書いてあるね」と云った。一階から五階までは商店や飲食店が入居し、六階が鶴見臨港鉄道だ。或いは、鶴見線が国有化される前の会社で、今は引き込み線を管理するのかと思った。
当時はまだインターネットが無かったが、何年かして西口ビルを所有することを知った。川崎鶴見臨港バスは、同社の子会社だったが、昭和二十三年京急に株の多くを売却した。
その後、平成二十三(2011)年に東亜建設工業の完全子会社になり、平成三十一(2019)年東亜地所を吸収合併し、社名を東亜リアルエステートに変更した。
文明の歌で記憶は章二つ城東区及び鶴見臨海

これら二章が無ければ、文明の歌集を前に読んだことさへ気付かなかった。(終)

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