二千五十八(うた)土屋文明の歌集を読む
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月四日(金)
岩波文庫1984年発行の
土屋文明歌集
土屋文明自選

を読んだ。カバーには
左千夫門下の抒情歌人として出発した文明(1890 - 1990)は、昭和初年、茂吉らと「アララギ」の編集を担う頃から、厳しいリアリズムの作風に変り、時代に対する鋭い批評眼と現実把握の確かさを以て、歌壇の第一線を歩んできた。(以下略)

小生が借りた本は、2004年の第10刷なので、第1刷からこの文章だったかは不明だ。明治四十二年から大正十三年までの「ふゆくさ」は、前回紹介したやうに美しいものが多い。だからリンクを「良寛の出家、漢詩。その他の人たちを含む和歌論」から「良寛の出家、漢詩。文明その他の人たちを含む和歌論」に変へた(2023.11.23追記、「文明」を「赤彦」に変更)。次の「往還集」は、大正十四年から昭和四年で、先頭の
休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす

「下宿部屋」が、「休暇」と「夕影のさす」の両方に効いて美しい。次の
冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ

「畳の上になじむしづかさ」が美しい。このあとも、歌自体が美しかったり、連作の物語性が優れたりする。「往還集」自体も同時に借りたので、こちらを読み進んだ。途中から、字余りがひどくなり、美しさが無くなる。和語優位が崩れたか。アララギの編集に携はり、応募歌の影響を受けたか、或いは国内全体の傾向か。
文明に感心なところは、左千夫の恩を忘れないことだ。昭和二年の
左千夫先生十五回忌於普門院

の六首より二首を抜粋すると
年月のすでに久しきみ寺に来て今日の思はいたく静かなり
香たきて仰ぐに親し先生がほめし天蓋の唐(から)花のかた
思ほえばこやせる御顔大きくあり眼鏡もともにをさめまつりき

茂吉も、左千夫が急死したときは慌てたし、自身が有名になったあと左千夫についてももっと有名になってもよいと云った。前にも書いたが、茂吉は自身が有名になったので慢心を起こしたか、或いは茂吉の後継者たちがやったのか、或いは敗戦で日本文化に断絶を生じたためか。
アララギの編集が、茂吉から赤彦、赤彦の急死ののち再び茂吉、文明と続いたことを考へれば、後継者たちがやったと考へるのが正しいのではないか。
今回の特集で、題に小さく「土屋」が入るのは、「文明」は一般名詞ではないことを明示するためだ。
文芸者 名に姓を付け呼ぶことは大袈裟にして 文芸は文そのものが主役にて 作者裏方目立たぬが良い

反歌  筆名を用ゐることも本名を目立たせぬやう長年の智慧
反歌  名前にて左千夫赤彦茂吉なら普通名詞と誰も思はず

八月五日(土)
単独の書籍「往還集」を読み、大正十五(昭和元)年以前にも酷い字余りがあることに気付いた。二文字以上を酷い字余りと称する。一方で、大正十五年の「音無川」の辺りから、美しさの無い歌が目立ち始める。物語性も無くなる。この辺りは相対的で、次に読み返す時に、逆の評価になるのはさう云ふ歌もあるためだ。音無川は熊野旅行の途中だから、ここで突然変はるのも変だ。また巻末記には、大正十四年にアララギ安居会があり
その時の作は大正十五年一月に発表したので、この集でもその年次に出した。

とあるから、一年前に作った歌だった。
大正十三年松本を去って以来、下野足利に居つた家族はこの秋、田端へ移つて来た。田端転居に就いては芥川龍之介氏が色々世話をしてくれた(以下略)

とある。この環境変化は大きかったことだらう。
みすずかる信濃に校長退職し 家族呼び寄せ東京へ 変化大きく調べにも影響がある 調査課題に

反歌  龍之介茂吉処方の薬にて自殺その前文明の世話

八月六日(日)
文明の歌で気になるのは、破調だ。比率ではそれほど多く無いが、酷い字余りもある。定型の美しさが無くなると、物語の美しさで二つ分稼ぐしかないのでは、と思ひながら、自選した土屋文明歌集を見た。すると、章(分量から云へば、世間一般には節)で選んでゐる。章の中を選歌したときも、あらすじが分かるやうに選んでゐる。
小生が美しくないとした小雲取遠望(音無川の一つ前)も自選し
夏の光するどく空にうづまけり崩れ著(いちじる)き十津川の山

「崩れ著(いちじる)き」は「い」があるから字余りではないと一旦思ったが、その上の「夏の光」も字余りだから、さう云ふ発想で作ったのではない。二句とも少し直せば定型になるではないか。小生と歌感が異なるのかなあと思ふ。次の一首も字余りだが自選し、その次の二首は定型だが、文明は選ばなかった。
真ひる空晴れ極りて白雲は崩れいたましき山につきをり
あさみどり空につらなる遠山の一ところ大きく崩れたりみゆ

この二首は佳いではないか。最初「小雲取遠望」から悪くなる、と書かうとしたが、この二首は佳いので「音無川」の辺り、とぼかしたくらいだった。
小生と文明とでは歌感が この辺りより異なりて 子規の歌論その基礎を為す

反歌  文明の師を敬ふの心根に由りて文明特集を組む

八月七日(月)
歌集「山谷集」を読み進むと、「往還集」の小雲取遠望辺りから無くなった美しさが復活する。昭和五年から十年初めまでの歌集だ。昭和七年の時事雑詠に戦争を批判的に詠んだ歌が連続し、小生も批判的に詠むことには敬意を持つ。この当時の時世を考へれば、勇気ある行為だ。
「土屋文明歌集」のカバーにある文章は、このことを云ったのではないか。昭和元年ではなく七年だ。尤も時事に関する歌は、この章だけだ。それは他の章のほとんどがアララギ、僅かに短歌研究、読売新聞などに対し、時事雑詠は文芸春秋、法政大学新聞、日本新聞であることでも分かる。
小生が破調の酷い歌の後は暫く物語性が無くなったなど別の欠点を感想するのと同じで、カバーの分を書いた人はこの章によって昭和元年以降をすべてリアリズムと感じたのではないだらうか。
念のために「山谷集」を一時中断し、「往還集」の小雲取遠望辺りを読み直すとやはり前回と同じ感想だ。

八月八日(火)
「小雲取遠望」の二章後の「坐社」から物語性が無くなると、感じたこともあった。酷い破調があると、その後暫くは嫌な気分で読み進むので欠点が強調されるのでは、と云ふ思ひもあった。
「山谷集」に戻り、「城東区」の章で読んだ記憶が蘇った。かつて汽車会社跡地近くで貨物線の下を都電が走った。「鶴見臨港鉄道」の章でも、記憶が蘇った。あの当時は、歌の調べによる美しさのみに気を取られ、物語性に注目しなかった。そのため左千夫の歌は5%、文明の歌は1%しか佳いと思はず、その背景が文明の「他意は無い」を大げさに考へたことが分かった。「左千夫先生に思ふ」の章で、左千夫への正当な評価をするのは文明だと判る。何回も書いたが、茂吉や赤彦も左千夫への正当な評価をしてゐる。茂吉のそれが変になった原因は、今後調べたい。「十二月十六日」の章でも、左千夫を正しく評価してゐる。
貨物線小名木川より越中島 都電は東陽公園で二つに分かれ外側は砂町経由錦糸掘 城東電車の流れにて専用軌道多きは魅力

反歌  亀戸は左千夫文明所縁の地今も幾つか史跡が残る(終)

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