二千六十一(和語のうた)試写会は、山田洋二さんと吉永小百合さんの対談がよかった
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月八日(火)
山田洋二さんと吉永小百合さんが舞台の椅子に座られ、小生はそこから7mほどだった。話を興味深く聴いて、極めて有意義だった。映画も食ひ入るやうに鑑賞した。ところがまもなく退場した。その理由は、息子とその娘との口論だ。その前に息子の嫁と娘も口論があったことが孫娘の興奮した口調で判る。小生は、悪人が悪人の限りを尽くす場面が嫌ひだ。昔の水戸黄門などは、贈賄商人と悪代官の悪だくみは短時間で済ませた。本当は、悪いことをしてもほとんどの場合は、葛藤がある。そこを描くのが演出だが、本当の悪人を登場させなくてはならない場合は、さらりと流すことが大切だ。
口論は悪人ではないが、見る側からすれば同じで、口論にも良心が無くてはいけない。三人が三つの修羅場を演じたため、会場を出た。
これ以外にも、問題点が続出だった。まづ、人事部長は(1)人格者、または(2)上に言ひなりのずるさがある。どちらかに描くのがよい。今回はどちらでもない、(3)駄目人間、に描いた。あれでは、本人がリストラ対象の平社員だ。
その人事部長が、同じ会社の営業関係の課長で大学時代からの親友から、同窓会の相談を受ける。それでゐて、暫くしてその課長が持続部長からリストラ対象と云はれたと、すごい剣幕で人事部へ怒鳴り込んでくる。人事部長は、今夜飲みに行かうと誘ふが、すごい剣幕で断り出て行く。あの場面では、飲みに行かうでは駄目で、会議室へ連れて行ききちんと説明すべきだ。
どなりこんだ課長も「絶対に辞めないからな」と捨て台詞を吐いて退出するが、あの一連の行為だけで課長解任が相当だ。それでは会社に残っても給料が激減する。
これだけ修羅場が続けば、見たくなくなるのが当然だ。さきほど書いたが、修羅場にも良心や人間関係など心の動きが必要だ。怒るのは心の異常状態であって、心の動きではない。
以上が退席理由だが、これ以外にも近所のおかみさんの息子の嫁は北欧人と云ふ世間話があり、いい男だと云ふが、これは人種差別につながる。アジア人やアフリカ人と結婚しいい男だ、なら問題はない。
ボランティアの打ち合はせが母親の家であり、牧師が参加した。これでせっかく下町の向島を舞台にしたことが台無しになった。小生は教会とほとんど交流が無いが、わずかな交流から見た狭い了見だと、信者代表(当番制もあらう)はよい人が多いが、牧師は癖のある人が多い。下町には似合はない。北欧人と牧師で、相当な欧米かぶれになってしまった。
更に、大企業と云ふ言葉が何回も出てくる。首都圏以外では、安い給料の仕事がほとんどだ。JR東日本は、東日本全体で鉄道を運行するのだから、取引禁止中の東京都交通局自動車部みたいな対象地域感覚ではいけない。否、首都圏だって大企業以外に勤務する人のほうが多い。この映画は大企業中心を批判する側とも取れるが、大企業中心の風潮を広める意味で害のほうが大きい。
お掃除ロボットが植木鉢をひっくり返した事と、出前で取った麺類をすする音が娘行方不明で妻(別居か離婚かは不明)から掛かって来た電話に入る話は余計だ。お掃除ロボットが植木鉢をひっくり返す場面なら、まだ興味を持って観ることも可能だ。ひっくり返した後を息子が片付ける場面と、麺類をすする音は、醜悪以外何物でもない。視聴者を不快にさせてはいけない。
近所のおかみさんが亡くなった亭主のことを「いい男だったねぇ」と云ったのも余計な話だ。最近の脚本関係者は、伏線の解決(彼らは回収と呼ぶが、それは作る側の勝手な理屈だ)をよく口にするが、これらが伏線であっても状況説明の補強であっても、観る側からすると注意力が削がれる。

小生の祖父(父の父)は貴金属職人だった。親戚で弟子だった人が向島に独立した。祖父は終戦直後に亡くなったが、そのときのお客さんで取引継続を望んだ人が何人かゐて、指輪やネックレスなどの修理は母が向島へトロリーバスに乗って持って行った。小学生低学年だった小生もついて行った。だから向島は懐かしい思ひ出が一杯で、そこが舞台だと一旦は大喜びした。
寅さんの思ひ出多き洋二さん 間近で観れて話をも聴けて楽しきひと時過ごす

反歌  寅さんの妹倍賞千恵子にて吉永小百合と人違ひした
反歌  寅さんに歌子で二つこれこそは吉永小百合間違ひが無し(終)

追記八月九日(水)
来場者アンケートはスマホから行ふので、本日協力した。全体の評価は「大変満足、満足、普通、不満、大変不満」のうち「満足」にした。映画は小生に合はないので、途中退席した。それだけのことで、企画は満足だった。
山田洋二さんの「テレビとは違ひ迫力があるので、ぜひ映画館に来てください」に映画人の良心を感じた。

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