二百五、マルクスを現代に生かすには(その三、資本論)
平成二十三年
十一月十二日(土)「自然を破壊しない経済」
人類はそのほとんどを食料や物が不足する世の中を生きた。不足する世の中は計画経済になる。むろん本当に物が不足したときには物価が高騰するがそれは幕藩体制が無策なためである。
考へても見よう。需給関係で価格が決まるのは為政者にとつては楽である。菅みたいなのでも首相が務まる。しかし買占めや投機で不正直ものが暴利を得る。計画ではない経済は非道徳である。
昭和の始めの大恐慌を境に世界から恐慌が消へた。それは資源を消費するからだ。人類は子孫のために、そして全生物のために資源の消費は禁止すべきだ。そうすれば計画経済のほうがよくなる。
十一月十八日(金)「資源の消費を停止せよ」
自然資源を消費しないといふことは、田畑から収穫した農作物を食べ、糞尿を昭和四〇年あたりまでならそのまま、今なら下水処理場の活性汚泥を肥料に用ゐる。
電気は水力と風力と植林した木材を用ひる。これを毎年繰り返すことだ。回復可能な範囲で水産物は消費してもよい。
このような社会にすれば労働量を商品価値とするのが一番正しい。日本共産党はそこまで論点を進めて自然保護の最先端に立つべきだ。
不破哲三氏は「『資本論』全三巻を読む、代々木『資本論』ゼミナール」の「第二冊」で次のように述べる。
マルクスは、人間にとって「労働」がもつ意味を、自然との物質代謝のなかで意義づけ、(中略)より高度な物質代謝--人間が自分の行為で切り開いてゆく物質代謝がある、その物質代謝をになっているのが「労働力」だ、という位地づけです。
これだと労働の意義を述べただけで人類を再生可能な循環社会に置く観点が抜けてゐる。日本共産党は私が先ほど述べたところまで論点を進めて自然保護の最先端に立つてほしい。
十一月二十日(日)「資源の消費を停止せよ」
地球温暖化の観点から観ると、資本主義は厳しく批判されるべきだ。もし人類が滅びないで済んだとすれば、資本主義が地球を滅ぼさうとしたが資本主義を廃止して危うく滅亡を免れた、と将来評価されることだらう。
そのためにもXX教、イスラム教、仏教、ヒンドウー教、儒教道教神道、共産主義などの団結が必要である。
不破氏は同じく「第二冊」で
資本主義社会で、搾取関係が表面では自由と平等の装ひをまとい、労働者と資本家が「自由で法律上対等な人格として相対することは、人間社会の歴史のなかでは、一つの重用な進歩であつて、ただごまかしとして片づけてよい問題ではない、ということです。奴隷制の時代や封建制の時代には、搾取するものと搾取されるもののあいだには、「自由で法律上対等な人格」としての関係などはありえませんでした。(中略)搾取関係が、こうした人格的隷属の枠組みからぬけだしたことは、資本主義社会が記録した重大な歴史的進歩の一つだったのです。
と主張する。マルクスの時代には歴史は進歩すると考へられてゐたから仕方がないが、地球滅亡が目前に迫つた今となつては資本主義の害悪は極めて大きい。奴隷制や封建制はその時代の権力者が堕落または怠慢から起こしたものであり、旧ソ連でも権力者の堕落や怠慢から共産主義政権が崩壊した。資本主義も同じである。
十一月二十一日(月)「マルクス経済学の研究者のレベルが低くなつた」
マルクス経済学は有益だからもつと研究すべきだが最近は研究者の程度が低くなつた。「私の研究によればマルクス主義で地球滅亡を救へる」くらいのことをなぜ言へないのか。
例へば的場昭弘氏の「超訳『資本論』」を見てみよう。
(世の中の人々を)
マルクスは、メドゥーサの神話にたとえています。その言葉を使えば、本当のことを見ると石になるので恐い、だから見えないように頭から帽子で目をふさぎ「絶対にこんなことはないのだ。世界はディズニーのIt's a small worldだ」と思いたがるのです。
私はディズニー・ランドを批判する気はありません。スモール・ワールドは理想としてはすばらしいものです。ただそれを見て、理想を現実だと思っている人に言いたいのです。本当の世界はそうではないと。
マルクスに倣つて「石になるのが恐いと現実を見ない」と言へば済む話ではないか。ディズニーランドまで持ち出す必要はない。そもそもスモール・ワールドを現実だと思つてゐる人なぞ世界中で的場氏以外ゐない。
十一月二十三日(水)「貧困の中で健康を害して執筆したマルクスと、飽食時代に駄本を出す日本の学者ども」
的場氏はマルクスについて
「彼は同情なんかでプロレタリアートを支援していません。歴史を動かす大きな客観的な力をそこに読み込んでいるのです。」
「ブルジョワのくせになぜ労働者の味方をするのか。豊かな生活の中で、労働者をある意味で避けた人間になぜ労働者のことが語れるのかといった問題が出てきます。しかし、実は彼が労働者でなかったからこそ、労働者の社会が分析できたということも確かなのです。」
「仕込みなしには料理はできない。しかし仕込みだけでは料理にならない。
さあ、ここからが腕の見せ所です。すべての知識を総動員し、あるひとつの流れをつくります。マルクスが行き着いた概念である商品は、その結実です。しかし「商品を見て何がわかるのか」、なるほどそうです。「商品を探すのに三〇年近くもかかったのはおかしい」。確かにそうです。
しかし、よく考えてください。初めて見たモナリザと、三〇年も研鑚を積んで見たモナリザの差を。」
マルクスは弾圧や国際労働者協会の内紛や貧困と闘いながら資本論を執筆した。最後は病気との闘いだつた。それなのに、同情なんかで応援していない、豊かな生活のなかで、さあここからが腕の見せ所です、などとふざけた文章を書き連ねる。
近年気になるのは大学教授と称する連中に低級なのが多くなつたことである。
十二月四日(日)「封建時代より悪くなつた資本主義」
不破氏の「『資本論』全三巻を読む」の「第三冊」を見てみよう。一八六八年のマルクスの演説が載つてゐる。機械の発達により労働時間が短縮されると予想してゐたのにそうはならなかつた。
・われわれをいちばん驚かせる点は(中略)労働時間は短縮されないで、労働日が一六時間ないし一八時間にも延長された。以前には、標準的な労働日は一〇時間であつた。
・機械が改良され、個々人の労働強度が高められた結果、いまでは短縮された労働日内に、以前に長い労働日内になされたよりも多くの仕事がなされている。人々はまたもや過労におちいった。まもなく労働日を八時間に制限することが必要となるであろう。
資本主義は封建時代より悪くなつた。労使関係も次のようになつた。
・(以前には)労働者はある程度まで自由な行動者で、彼らの雇い主にたいして有効に抵抗する力をもっていた。現代の工場労働者には、婦人と児童には、そのような自由は存在しない。彼らは資本の奴隷である。
ここで婦人と児童について述べてゐるのは、機械が婦人と児童を工場に追い込んだことにその前で言及してゐるためである。労働者の立場が悪くなつた理由をマルクスは次のように述べる。
・資本家を労働者への依存からまぬかれさせるような、なんらかの発明を求める声はつねにあった。(中略)その結果、資本家の力は途方もなく増大した。(中略)封建領主は、その農奴を取り扱ううえで慣習にしばられていたし、若干の特定の規則に従っていた。工場貴族はどんな統制力にも従わない。
資本主義は封建主義より悪い。その理由は平衡に達しないためである。ここが私とマルクス主義者との違ひだが、マルクスは私と同じことを主張してゐる。
・機械によってひきおこされる苦難は一時的なものにすぎないという議論をしばしば耳にする。しかし、機械の発達はたえまないのであって、それは、一時的に多数の人間をひきよせて仕事をあたえるとしても、他方ではたえまなく多数の人間から仕事を奪う。
十二月六日(火)「地球温暖化時代を迎へて」
マルクスは、地球温暖化のまだない時代に生まれたから、人類は進歩すると考へた。
それとは別にたえまなく進歩すれば平衡に達するのに時間がかかるから、それまで世の中が混乱する。マルクスの思想が中国、ベトナム、キユーバなどわずかな国でしか受け入れられない理由はここにある。
共産主義は資本主義が現れる前の伝統勢力と連携し、資本主義を平和的な方法で終了させるべきだ。そうしないと地球が滅びる。
経済学者は、資源の消費を止めればマルクス経済学の多くは正しくなることを示し、一方でマルクスの間違へたところや現代に合わないところは指摘すべきだ。
十二月七日(水)「ハイブリッド経済学」
すべてを統制経済でやるのは難しい。一番の理由は利権者が出てくることだ。まるで菅直人以降の民主党みたいだがそれはさておき、資本主義と社会主義を共存させるのが正解であらう。
企業を発展させたい人は企業で貢献し、残りの人は公営企業で貢献すべきだ。公営企業は現在の公営企業と失業対策の中間になる。
これなら失業者はいないから失業保険と生活保護が節約になる。
その場合、マルクスの労働価値説をどう変更すべきかを経済学者は研究すべきだ。自然資源の消費を止めた場合の資本主義の収束先も研究すべきだ。
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