二百五、マルクスを現代に生かすには(その二、共産党宣言)

平成二十三年
十月二二日(土)「共産党宣言最大の欠陥、階級闘争その一」
共産党宣言にはいくつかの誤りがある。マルクスやエンゲルスが間違へた場合もあるし、当時はまだそこまで気が付かなかつたこともあらう。一番大きな誤りは、序文に続く第一章の冒頭の
「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である。」(以下、引用は大月書店版
の部分である。あらゆる社会の歴史が階級闘争だと言ひ切つてしまふと、人間には良心がないことになる。
確かに他人の良心に期待するのはお人良しすぎる。例へば今回の東北大震災で、各企業がホームページや宣伝に「心からお見舞い申し上げます」、「つながろうニッポン」、「応援しよう東北」などと書いてゐる。しかし本当につながろう(といふことは連帯責任を取るくらいがんばる)としたか、応援したか、と聞かれれば口先だけのところが多かつたのではないだらうか。
だが言はないよりは言つたほうがよい。各人各企業の「応援しよう東北」といふ言葉に励まされた人も少なくはない筈だ。また口先だけではなく実際に人員や資材を提供した企業も多い。
だからあまり他人の良心は期待はできないとしても、善意を切り捨てるのではなく善意には感謝し、その方向に誘導するようすべきだ。
それにより多数の第三者の支持も集まる。階級闘争だと言ひ切つてしまふと周囲の支持は集まらない。それに資本家階級も必死になるから弾圧を招く。

十月二三日(日)「階級闘争その二」
階級闘争といふのはつまりは利己主義である。しかし西洋で言へば契約だとか西洋にも西洋式の社会の慣習がある。何でもかんでも自分だけ有利になればよいといふものではない。日本で政治運動や社会運動に参加する人は最初は利己主義とは正反対の場合が多い。そもそも百%利己主義といふことは普通はない。
昨日は周囲の良心に期待すべきだといふことを述べたが、本日述べたいことは、階級闘争だと宣言することにより自分を利己主義にしてしまふことだ。だから左翼崩れと呼ばれる人たちには内輪もめや不倫騒動やゼニゲバ事件がしよつちゆう発生する。自ら利己主義を名乗つてはいけない。

十月二四日(月)「階級闘争その三」
マルクスはドイツから追放され、パリからも追放され、オランダでは追放と同時に逮捕もされた。亡命先のイギリスでは貧乏だつた。
普仏戦争が起きた。パリコミューンは短期で弾圧され、コミューン兵士は全員銃殺にされた。更に悪いことに共産主義者同盟や国際労働者協会は内紛が絶えなかつた。 マルクスの著作には、善意に期待する他派に激しく反対するものもある。しかし殺伐とした当時の時代背景を考へ、今に当てはめてはいけない。
労働組合は総労働対総資本で行くべきだ。そうしないと労組は堕落する。そして中小労働者や失業者や個人商店が切り捨てられる。しかし善意や良心を切り捨てた階級闘争は今の時代に合わない。

十月二五日(火)「階級闘争その四」
階級闘争の件は重要だからもう一度復習すると、階級闘争といふのは自分の階級だけ、つまり自分たちだけを考へることだ。一方で政治運動や社会運動は社会全体を考へることだ。ここに正反対の矛盾がある。
だから労働運動は一歩誤ると下請労働者や派遣労働者の犠牲の上に自分たちだけいい思ひをしようといふ連中が出てくる。 マルクスの最終目標は階級を無くすことだから社会全体を考へてゐると言へなくはない。しかし共産主義国でも階級はなくならず、資本主義国では共産主義に至る目処がまつたく立つてゐない。左翼崩れは利己主義に陥る。一方で左翼自体も将来が見へないと利己主義に陥る可能性がある。

十月二九日(土)「家族の廃止」
「家族の廃止! 共産主義者のこの恥しらずな意図にたいしては、もっとも急進的な人々でも激昂する。」
マルクス自身は奥さんと子供たちと奥さんに付き添つて来た家政婦で幸せな家庭を築いた。石原莞爾は家政婦が最後までいつしよだつたことを挙げて、こういふ人に悪い人はゐない、とマルクスを誉めた。
今回大滝秀治氏とともに文化功労者に選ばれた防衛大学校長の五百旗頭真氏は石原莞爾と共産主義者の関係に詳しいので、なぜ石原が共産主義を認めたのか学生たちに説明すべきだ。 最近は米軍の下請けで反共産を叫ぶだけの元幹部自衛官が出てきたので、将来日本が独立を保てるか心配である。五百旗頭氏自身にも心配なところがある。五百旗頭氏は国際交流をいふが、実態は西洋への統合、日本の場合は更に悪くアメリカへの統合である。先住民の土地を奪つたアメリカは歴史が平衡に達してゐないから真似をしてはいけない。

共産主義者は家族の廃止を主張するのではなく、ブルジヨア的家族の廃止を主張する。だからその次の行では「現在の家族、ブルジョア的家族は、なにを基礎にしているか? 資本を、私的営利を、基礎にしている」「大工業の結果、プロレタリアにたいしていっさいの家族のきずながたちきられ、その子供たちがたんなる商品や労働用具に化せられるにつれて、家族だの、教育だの、親子の親密な関係だのについてのブルジョアのきまり文句は、ますます吐き気をもよおすものとなる。」と反論してゐる。 更に「だが、君たち共産主義者は婦人の共有をやろうとしている、と口をそろえて全ブルジョアジーはわれわれにさけぶ。」にも反論し「いずれにせよ、今日の生産関係の廃止とともに、この関係からうまれる婦人共有、すなわち公私の売淫もまた、なくなることは、おのずからあきらかである。」と結論付けた。
反論は十分なくらいしてゐるが、共産主義者のなかには婦人共有や家庭破壊に類することを実際に行つた者も多い。例へば管野スガは荒畑寒村と同棲し、荒畑が入獄中には幸徳秋水と同棲を始めた。
カンボジアのポルポトは児童を家庭から切り離し集団育成しようとした。
マルクス自身は違ふのにマルクスの影響を受けた人たちにこのような例が続出する。「資本主義は道徳破壊だ」と反論すれば一言で済むのに言はないからだ。 人間は堕落することに気が付けば、封建主義も資本主義も社会主義も我々が見るものはすべて堕落したものだと気が付く。
日本で言へば源頼朝の始めた武家社会は、貴族や大寺院に寄付したことにした荘園を認めながら地頭の生活権も守るといふ当時としては画期的なものだつた。堕落した公家たちとは別の武士統括部門を鎌倉に作るといふ画期的なものだつた。
資本主義も一族経営とは異なり皆で金を出し合つて事業を興し西洋に追い付かうとする画期的なものだつた。
封建時代の堕落したものを資本主義者が批判し、資本主義の堕落したものを共産主義者が批判した。武家社会について見れば、もし農地を耕す農民が武士より偉いとすれば世の中は平和だつた。マルクスの考へた階級のない社会は画期的である。一方で安土桃山の前までは武士と農民が分離してゐなかつた。

十月三十日(日)「文化の廃止」
宗教、道徳、哲学、政治、法等々の思想は、なるほど歴史的発展がすすむにつれて変化したが、宗教、道徳、哲学、政治、法そのものは、こうした変化のうちにも、つねにたもたれてきた、という人があろう。(中略)共産主義は、永遠の真理を廃止する、宗教や道徳を改革するのではなく、これを廃止する、だから、共産主義はこれまでのあらゆる歴史的発展と矛盾する、と。 これに対してマルクスは社会の歴史は階級対立を通じてうごいてきたから階級対立が解消すればこれらもなくなると反論する。これは間違つてゐる。
もしこれらをなくせば新たに作つたものは不安定となる。その前に意見対立が多すぎて混乱する。スターリンの粛清や毛沢東の文化大革命を見ればそのことは明らかである。 文化や社会制度は一朝一夕にはできない。長い年月に耐へられるようにするには平衡状態にする必要がある。状況に応じて変化させるべきだと主張するかも知れないが、先ほども述べたように意見対立が多くて無理である。そのように不安定なものに国民の支持も集まらない。
文化は廃止してはいけない。実際には共産主義者は民族解放戦線で文化の大切さを学んだ。マルクスの時代にはまだそこまで判らなかつたといふだけだ。一言一句従はなくてはいけないことではない。

十一月六日(日)「他流の社会主義の批判」
マルクスは第三章で他流の社会主義を批判してゐる(下表参照)。共産主義者たちが内輪もめを繰り返すのは、これに倣つたのであらう。
他流名特徴批判
封建的社会主義地位を追われたイギリス、フランスの貴族がブルジヨアを批判今日では時代おくれな、まったく別の環境と条件で自分達が搾取していたことをわすれている
小ブルジョア社会主義中世の特許市民と小農民身分でブルジヨアに倒されたこの社会主義は、古い生産および交通手段を、そしてそれとともに古い所有関係と古い社会を再興しようとする
ドイツ社会主義または真正社会主義フランスの社会主義的および共産主義的文献を翻訳フランスの生活関係がドイツにうつされたわけではないことをわすれた。新しいフランス思想を翻訳者の古い哲学的良心と調和させた
保守的社会主義またはブルジョア社会主義ブルジョアジーの一部(経済学者、博愛家、人道主義者、労働者階級の状態の改良家、慈善事業家、動物虐待防止論者、禁酒協会の発起者)は、ブルジョア社会の存続をはかるために社会の欠陥をとりのぞきたいとのぞんでいる  現存の社会をそのままにして、それを変革し解体させる諸要素をひきさりたい
空想的社会主義および共産主義もっとも苦しんでいる階級としての労働者階級の利益を主として代表する。自分はこの階級対立をはるかに超越しているものと信じるのである社会のもっともよい境遇にあるものの生活状態までも、改善しようとのぞむ。これらの体系の創始者たちが多くの点で革命的であったのに弟子たちは反動的な宗派をつくっている。プロレタリアートの歴史的発展をまえにしながら、その師匠たちの古い見解をかたくまもっている。したがって、彼らは一貫して、階級闘争をふたたびにぶらせようとし、対立を調停しようとする

他人の良心にはあまり期待できなくても期待すべきだ。明治維新のときに薩摩藩家老の小松帯刀が領地を返納した例もある。次に、出自や過去を問題にしてはいけない。毛沢東の文化大革命で父親が元地主だつた或いは共産党の実務派だといふ理由で迫害された者が多数ゐた。元貴族だらうと経営者だらうと労働者のことを考へる人たちは仲間扱ひすべきだ。

第三章で参考にすべきは、経営側は自分側の味方をする者たちを優遇することだ。国鉄分割時の鉄労や動労の優遇を見ればそれは判る。優遇されても仲間を見捨てないといふ良心を持つ目的のために、現代にあつては共産党宣言を読むべきだ。


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