二百四、横浜市営バス(その一、支線の多い路線)

平成二十三年
十月一日(土)「子系統のある路線」
横浜市営バスは魅力的な路線である。子路線をたくさん持つ系統や、一日に一往復しか走らない路線、昭和二十年代の系統番号を廃止になつた後も欠番として保つ路線などである。
しかし調べるうちに、過去の遺産を交通局の長年の官僚主義が荒らした結果、このようになつたことが判つた。

十月四日(火)「二十三系統」
現在最も子路線の多いのは二十三系統である。

中山駅から長津田まで行つた後に二停留所戻り左折して奈良北団地に行く。これが本線だが極めて本数が少ない。
奈良北の折返場は市営から東急バスに二路線を移管したため同社と共用である。少し離れた場所に小田急バスの折返場もある。
帰路は十日市場駅行きの二十三系統に乗り中山行とは途中で分かれた。中山行きと十日市場駅行きは交互だからこちらも本数は多くない。十日市場駅からは青葉台駅と若葉台中央を結ぶ二十三系統に乗つた。これは先ほどの中山発奈良北とは直角の関係にある。
このようになつた理由は中山駅と若葉台中央の路線が存在するのと、今は廃止されたが中山と青葉台も少し前まではあつた。つまり支系統どうしを繋げたものである。

十月六日(木)「四十一系統」
四十一系統も魅力的な路線である。

本線は鶴見駅から中山駅であり、全線を走るバスが十五年くらい前まで一本だけあつた。私も朝早く家を出て一回だけ乗つた。今は途中の川向町折返場までが本線で、途中の港北総合庁舎前で分かれて新横浜までの支線、新横浜から総合庁舎前まで戻つて中山駅までの路線がある。
かつては新横浜から逆方向に小机駅を経由して川向町に行く支線もあつたが廃止された。新横浜から太尾新道を短絡する支線もあり一日に数本だけ走つたが六系統として独立した。

十月七日(金)「農村のバス」
昭和四〇年あたりまで横浜市の中心部は市電が走り、郊外は農村部でバスが走つた。だから横浜市営バスは農村のバスの特長を残す。これはよいことである。だから「特徴」ではなく「特長」とした。
その後、都市化の波が押し寄せた。

十月八日(土)「系統番号の付け方」
二十三系統と四十一系統は昭和二十年代に現在とほぼ同じ区間に創設され、その後の都市化とともに支線が増へた。一系統から四十一系統辺りまでは昔ながらの路線がほとんどである。
一つには高校生の通学などで路線を変更し難いといふ理由があらう。そのことを含めてバスが地域と一体になつてゐるため変更し難いといへるのではないだらうか。そこが新興住宅街での路線は昼間の乗客の少なさが採算を悪化させ新設廃止を繰り返すこととの違ひであらう。
系統番号は現在三四五番まである。実際は百十四系統だから三つに二つは欠番である。昔の番号を記念し欠番にしたといふ訳でもない。例へば四十一系統の支線だつた太尾新道経由は六系統として独立した。なぜ多くの欠番のうち六を使うのか理由は判らない。
東京では都電が廃止されたときの代替バスは電車の系統番号に五百を加へたものを用ひた。一系統は五〇一、三七系統は五三七、トロリーバスの一〇一は六〇一といつた具合である。横浜では一〇〇代が代替バスだが、次表のように規則性はない。
バス市電
101
102
103
105
106
11313
76
98
68
それだけではない。一〇四は右の表にない。理由は市電とは無縁の鶴見駅と新横浜駅を結ぶ路線だからである。せつかく一〇〇番代は市電の代替バスにしようと決めたのにもう壊す。しかも一〇四系統は既存バス路線の十四系統とほぼ同じである。

鶴見新横浜間の途中から二百mほど入つたところに梶山といふ折返場がある。十四は梶山から鶴見駅を経由して新子安駅まで行く。後に新横浜まで足を伸ばす十四もできた。この時点で一〇四は完全に十四の一部分となつた。
番号路線
14梶山-鶴見-新子安
14新横浜-鶴見-新子安
104新横浜-鶴見
104新横浜-梶山
その後、十四の鶴見新子安間が短縮された。これで統合以外に考へられないが統合しなかつた。
番号路線
14梶山-鶴見
104新横浜-鶴見
104新横浜-梶山
この結果、十四系統は平日朝夕と土曜朝の梶山折返し車だけが名乗ることになつた。
横浜市営バスは子系統の多いことが特長である。最初から一〇四を十四の子系統とすればよかつたが市電の代替番号に割り込ませた。先日述べたように四一系統にも鶴見新横浜がある。たぶん担当者が十四、四一、一〇四に同じ起終点のバスを割り振るといふ悪趣味を考へたのであらう。こんなことをすれば誤乗車の原因になる。現に私は今回の調査で新横浜から四一に乗らうと思つて間違へて一〇四に乗つた。

一一三系統は市電十三系統を廃止するときに、番号を合わせるために既に存在する一一三を一〇七に変へて割り当てた。これも変な話だ。市電一系統が一〇一、二系統が一〇二なら、十三は一一三に割り振るべきだ。しかしほかを出鱈目に割り当てておいてなぜ十三だけ合わせるのか。それも既に付いてゐる番号を変更してまでである。
それだつたら十三を一〇七にすれば一〇一から一〇七までが先ほどの一〇四を除いて代替バスで揃ふ。番号を付ける担当部署は市営バスではなく市営バ○ではないのかと嫌味の一つも言ひたくなる。

十月九日(日)「横浜市営バスご贔屓」
横浜市営バスの運転手は客扱ひの態度がよい。我が家の近くの某民営バスとは大違ひである。横浜市営バスの停留所までは7分ほど歩くが夜は民営バスの本数が少ないから市営バスを利用する。朝は駅まで三Kmを歩く。十七年前に会社の業績が悪くボーナスが少ないので家計を助けるために始めたが今でも続いてゐる。 これは健康によい。真夏の全国一の気温のときに四時間自転車に乗つたあとに間違へて隣の駅まで歩いても平気だつたのは、日頃の徒歩のお蔭である。
だから近くの民営バスには乗らず、離れた市営バスに乗る。市営バスご贔屓である。その私から見ても市営バスの路線番号はよくない。しかし農村時代からの路線番号には愛着がある。ここに解決策がある。

十月十日(月)「二箇所表示方式」
以前はどのバス事業者も系統名は番号だけを用ゐた。後に東京都が主な停留所一文字に番号といふ制度を始めた。例へば上野から亀戸までのバスは上二六を名乗る。この方式は全国のバスにも普及した。
番号の十の位は方角を表すさうだが一般には知られてゐない。だから停留所名一つだけはそれほど有効ではない。乗客の利便を考へれば主な停留所二箇所にすべきだ。横浜から磯子までは横磯〇一といつた具合である。途中どまりは文字だけ換へて同じ番号を保つ方法もあるが、運転士が途中どまりだ、或いはどこまで延長といふことを案内すればよい。横磯〇一で「みなと赤十字病院止まりです」、或いは横海〇一(横浜から海づり桟橋)で「シンボルタワーまで行きます」といつた塩梅である。
乗車時に黙つてゐるのは無愛想だが乗客一人ひとりに「ありがとうございます」と言ふのも工夫がない。三人に一人くらいの割合で案内するとよい。

乗客の利便を考へればこれでよいが、農村時代からの路線番号を残すのであれば昭和三九年あたりまでの路線は番号だけでもよい。民営バスでも他から路線を引き継いだなどの理由で、両方の方式を用いるところもある。

農村時代の、東京オリンピツクが開催される前の番号をそのまま使つてゐますといふことで、住民にも観光客にも人気が出よう。東京オリンピツクは昭和三九年の今日、十月十日に開催された。

十月十一日(火)「甲乙と例外」
ここからは東京都交通局の知恵を拝借しよう。本線と支線は甲乙丙と分けるべきだ。例へば鶴見・川向町は四一甲、鶴見・新横浜は四一乙である。新横浜・ララポートと新横浜・中山は独立させたほうがよい。
本数の少ない子系統は例外とする。都電の二〇系統は護国寺を左折して江戸川橋が終点だつたが三十分に一本は二〇例外として直進して池袋まで行つた。二〇の系統板の上部に「臨時」といふ小さな鉄板を付けた。これと同じで本数の少ない子系統は「臨時」とすべきだ。

十月十二日(水)「平日一往復」

四五系統に平日朝に平戸まで一往復する便がある。往路は高校生、復路は通勤者でけつこう混む。この便だけ上永谷駅に丸山台経由で入る。理由は、平戸方面に並行する神奈川中央交通がこの経路だからそれに合わせたのだらう。
ところが難関が持ち上がつた。一三〇系統(路線図の赤い線)のうち上永谷に向ふ朝夕二本だけがこの経路を取る。港南車庫に向ふ便は取らない。上永谷手前の交差点にバスを連続させないためか、と想像してゐる。
農村時代の特長を引き継ぐ横浜市営バスは今後もこの特長を残してほしい。しかし判りやすくすべきだ。そしてこの特長が収入増大に繋がるようにすべきだ。


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