二千三十九(うた)子規の平賀元義論を読み、万葉論にも疑問を持った
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
七月六日(木)
子規の墨汁一滴は、十二日に亙り平賀元義論を展開する。これを読み思ったことは、墨汁一滴と云ふ新聞連載物を書くための歌論に過ぎない。子規の挙げた元義の歌で、或る種の美しさを感じるのは、次の二首だけだ。
うしかひの子らにくはせと天地の神の盛りおける麦飯の山
柞葉の母を念へば児島の海逢崎の磯浪立ちさわぐ
「或る種の美しさ」は、全面的な美しさではない。美しさは無いのだが、何としても美しさを探すなら、こんなところが美しい、と云ふものだ。一首目は「神の盛りおける麦飯の山」が美しくなくもない。二首目は、二句までが児の序詞と考へれば美しくなくもない。このあと数日に亙って歌を紹介するのだが、美しさは感じない。
子規は、万葉集の歌はすべて優れるとする。どの歌集でも、優れた歌と、さうではない歌があるから、これが一つ目の間違ひ。万葉集の歌は、言霊信仰の時代であり、文芸での美意識は後世のものだ。これが二つ目の間違ひ。古今集は、その時代に合った歌であり、それをすべて否定して万葉集に戻ることは原理主義である。これが三つ目の間違ひ。古今集にも、優れた歌とさうではない歌があるのに、すべて否定するのは四つ目の間違ひだ。
子規はこれだけ間違ひをしたので、元義の歌を選歌して美しい歌が少ないのは当然であった。
子規は書く 元義岡山去る訳は人斬り又は不平あり 妻なく巫女の家へ住み男子二人が生まれるも長子窃盗次子もまた不肖となりて 著作散乱
反歌
元義は刀の鞘が僧に触れ漆剥ぐまで磨きたといふ
相当な狂人だが、子規は国学者としての遺稿が無いことを嘆く。
七月七日(金)
子規の選歌で、大君の歌などが含まれるので、元義の国学傾向を子規は支持したのかとも思った。しかし子規は、病身でありながら新聞社から給料を貰った。墨汁一滴を書くことが目的で、元義論、万葉歌論は、後付けではないか。さう思ふやうにもなった。
第一回からの歌会の選歌と批評も載る。歌は低調である。初期は河東碧梧桐も参加した。「子規の俳句分類」を読むと、多数の人たちの俳句を、いろいろな切り口で分類する。子規の俳句への情熱を感じる。
子規の書を四冊借りて感じたは 俳諧の人歌論の人にて歌の人には非ず
反歌
歌論で門下に左千夫加はりて赤彦茂吉末広がりに(終)
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