二千三十一(和語のうた)失望に終った子規の四冊
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
六月二十五日(日)
子規の歌集を読み、小生と同じで子規も定型の美しさを追ひ求めたことを知った。そこで子規選集四冊「子規の三大随筆」「子規の俳句革新」「子規の短歌革新」「子規の俳句分類」を借りた。「子規の短歌革新」を読み「四たび歌よみに与ふる書」までは、十割賛成だった。尤もその中の
実はかく申す生(せい)も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて(以下略)

を見て、門人たちが竹之里歌の明治二十九年以前を除いたのかと、半分納得し、半分その短絡志向を不満に思ったが。小生が思ふに、古今集以降が悪いのは、詠んだ人たちに上昇志向があるからだ。子規の歌には、それが無いから二十九年以前も問題は無い。
「五たび歌よみに与ふる書」で一転する。一首目への批判は同感である。ところが二首目の
もしほ焼く難波の浦の八重霞
    一重はあまのしわざなりけり

小生は「あまのしわざなりけり」が好きではない。今なら、なぜこんな歌を古今集に載せたのかと思ってしまふが、当時の「しわざ」は今と異なり悪い意味は持たないのだらう。今なら
もしほ焼く難波の浦の八重霞一重は民の暮らしを保つ

とでも詠む。「民」は「あま」でもよいが、塩は必需品、特に肉体労働には絶対必要なので、あまを含む国民すべての暮らしとした。ところが子規は
「あまのしわざ」と主観的に置きたるところいよいよ俗に堕ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐焚(や)く煙のなびく由尋常に詠まばつまらぬまでもかかる嫌味は出来申(もうす)間(ま)敷(じく)候。

せっかく今回の特集は、子規を誉めようとしたのに。子規は死期が近い、と嫌味を申(もうし)度(たく)候。

六月二十六日(月)
七たび歌よみに与ふる書で
たとい漢語の詩を作るとも洋語の詩を作るとも、はたサンスクリットの詩を作るとも日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候。

まづ、和語のみの歌は、柔らかく心地がよい。明治維新以降、世の中に新技術や新制度が多くなり、漢語(多くは日本人が洋語を漢字の熟語にしたものだが)や洋語を使はないと、文章を書けなくなった。
しかし、実用文は書けなくても、歌なら作れる。小生がときどき和語のみの歌を作るのは、そんな状況でも作れる手本を示した。例へば、競技をするのに手を使へなかったら不便だ。しかしサッカーは、その不便に挑戦した。それと同じだ。体育と文芸が違ふと思ふ人がゐるのなら、頭の体操と考へてほしい。
歌の中 大和の言葉のみにても詠めることにて ときどきは頭鍛へる為に作らう

反歌  歌はまづそと国言葉その次に大和の言葉二つの調べ

六月二十七日(火)
八たび歌よみに与ふる書で、実朝の
物いはぬよものけだものすらだにもあはななるかな親の子を思ふ

について子規は
この歌は第五句字余りゆえに面白く候。

として、字余りをすることにより、(1)面白きもの(2)悪しきもの(3)するともせずとも可なるもの、の三種があると云ふ。まづ第五句は六音目に「お」があるから字余りではない。だが本居宣長の発見は広く知られてゐなかったから、子規が字余りゆえに面白いとしたこと自体は、問題ない。それより重大なのは、字余りで(1)(3)があるとしたことである。
小生の歌感では、字余りは確実に悪くなる。小生と子規は、歌感がまったく異なる。(終)

「良寛の出家、漢詩。その他の人たちを含む和歌論」(百七十一)へ 「良寛の出家、漢詩。その他の人たちを含む和歌論」(百七十三)へ

メニューへ戻る うた(五百七十)へ うた(五百七十二)へ