二千三十八(うた)鶴見の仕事、鶴見川崎の今昔
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
七月五日(水)
本日は、仕事で鶴見へ行った。駅から東側の工業地帯だが、落ち着いた住宅地帯でもある。近くに日東浜公園と入船公園がある。行ってみて驚いた。入船公園は、かつて小生の自転車通行路だった。(臨港鶴見川橋か塩鶴橋を渡り、産業道路を弁天町から東京方向へ走り、入船公園へ入る。浅野駅側で公園を出て二車線の道路を北東へ走り、武蔵白石の踏切を渡った。)
行ってみて、あの入船公園かと懐かしかった。九年前まで鶴見区、五年前まで港北区に住み、(鶴見区は鶴見か菊名、港北区は菊名か新横浜だった。菊名と云ふ共通項があったから、)移転した感覚は無かった。しかし二十年前に、勤務先の横浜事業所が新中野へ移転した。あれから鶴見の東側へは行かなくなった。
近くに沖縄料理の店がある。しかしここは夕食時のみ開店だ。仕事が終了の後は、予め調べてある昼食も開業の沖縄料理の店へ行くはずが、店が見つからない。そのまま歩くうちに、沖縄そばの店があった。ここは大人気で、外の椅子に七人くらい待つ。本日は十二時半まで勤務なので、それから十五分は過ぎた。それなのにこれほど混むとは驚きだ。
潮田神社の鳥居を遠くに見つつ潮風大通りに出た。反対側に沖縄泡盛呑処の看板が見えた。開店は夕方だらうと思ひながら信号を渡ると、やはり夕方からだった。(潮鶴橋を渡ったところで潮風大通りは、区役所横の通りと繋がるやうな、一方で鶴見駅東口駅前通りと繋がるやうな、変形の交差点がある。
ここを渡るとかつて勤務先があった。今は別の企業が入り、その前に二階から撤退したあとに入ったNPOの保育園は撤退したやうだ。向かひが鶴見川なので、通園可能面積が半減することと、保育園に預けるため駅とは反対側の鶴見川に向かふところに、難点があった。
)
駅前通りの反対側で昼食を食べた。鶴見銀座を往復した。前回観たときより寂れたことは無かったが、一般企業の小さなビルと隣の立体駐車場が商店街に合はないのが気掛かりだ。
ATMへ寄ったあと、川崎まで乗車した。独身時代は、三井信託銀行が小生の主取引銀行だった。給与振り込みは、埼玉銀行や第一勧銀でも、預金は信託銀行を使った。川崎駅で降りると、道路の向かひ側に三井信託の支店があり、よく利用した。結婚しても、暫くは毎月預金を出来たやうだ。
後に、川崎駅が地下街へ繋がり東口が複雑になった。このころから三井信託を使はなくなった。鶴見駅東口の証券会社や、野村証券鶴見支店とは取引が続いたから、子の進学で貯金をする余裕が無くなる前に、単に鶴見駅前にある便利なところを使ふやうになっただけだった。
今回川崎で降りたのは、三井信託ではなく、さいか屋の閉店後がどうなったかを調べるためだった。ところが暑いので、さいか屋ではなく、その手前に出来たルフロンを上の階まで往復した。カワスイ(川崎水族館)が最上階にあるのはすごいことだ。
ルフロンは、無関係の商店や施設が入居する。その相乗効果は何かを考へると、人がたくさん入館することだ。それぞれ目的とする店や施設に行くのだが、この相乗効果は大きい。

七月六日(木)
かつて勤務先が鶴見にあったときは、昼休みの一時間で昼食のほかに、あちこちを散策した。潮風大通りを弁天町の交差点まで歩き、その近くの食堂で食べて戻ったこともあった。潮田公園や潮田神社に寄ったこともあった。かつての職場の散策範囲であり、なつかしかった。
新婚と 上の子そして下の子が生まれ育った鶴見の地 思ひ出多く尽きること無し

反歌  鶴見には日興野村生協とサトームセンと家具屋今無し
野村の支店が無くなるときに、継続推奨は川崎支店だったが、小生は月曜に会議で本社に行くため、西新宿野村ビルの支店に変更し、暫くは重宝した。鶴見の中小証券会社(日本アジア証券の前が何だったか記憶にない)は使ひ続けたが、或る時暫くぶりに行ったら、じいさんたちが電光掲示板を見つめて、場外馬券売り場みたいになって驚いた。日興、野村が撤退しても中小は粘りがある。インターネットで検索すると、その後アイザワ証券に吸収され、昨年九月、鎌倉支店とともに横浜駅近くの横浜支店になった。
中小の証券会社は継続し鶴見にあるか否横浜へ
(終)

追記七月八日(土)
昼休みが一時間の時は、パスポートを取りに川崎まで往復しても間に合った。鶴見は横浜市だが、桜木町や関内へ行くより、川崎のほうが便利だった。
川崎と鶴見は隣 一体は京浜東北京急に国道二つ旧道も産業道路鶴見線臨港バスと工業地帯

反歌  鶴見川多くの人が市境と思ふも実は東へ続く

メニューへ戻る うた(五百七十七)へ うた(五百七十九)へ