二千二十八(うた)一年四ヶ月ぶりに子規の歌を読む
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
六月十四日(水)
子規の歌を久しぶりに読み始めた。第一印象は、子規も小生と同じで、散文を定型にするところに美しさがあると考へたのではないか。第二印象は、明治三十年から歌が悪くなり、これは病気が原因ではないか。
子規が亡くなったあと、左千夫たちは四季の歌集を編集したが、取り上げた歌は明治三十年からだった。前に、子規と左千夫の歌について佳いと思ふのは全体の五%程度と書いたことがある。これが原因か。子規の歌が、明治三十年以降に変はるのは何が原因だらうか。
これらを探ってみたい。
明治の世三十年に 子規の歌大きく変はる その訳は病の為か歌よみに与ふる書にて議論の為か

反歌  左千夫らが三十年より前の歌捨てるの訳を今日より探る

六月十六日(金)
昨日、明治二十九年までの歌と、明治三十年からの歌を、再度比べた。本日も比べた。結果は三回とも同じだった。定型にすることはそれだけで美しいが、歌には二つ美しさが必要だ。明治二十九年までの歌には、調べに美しさがある。明治三十年からは、調べの美しさが消滅する。
これを万葉調だと、云へなくもない。しかし万葉集の歌は、その時代の歌が今まで記録されてきたところに、美しさがある。子規の明治三十年以降の歌については、「歌よみに与ふる書」を発表した子規の歌に美しさがある、と云へなくもない。左千夫たち遺弟が明治二十九年以前を削除した理由としては、それしか考へられない。
或いは何かほかにあるのだらうか。「写生」は万葉調に含まれる。また、散文を定型にする美しさにも含まれる。
歌よみに与ふる書にて 歌論に沿ふ歌ならば 万人が実践による美しさ 思ひ其の前取上げざるか

反歌  左千夫らが師の歌論と違ふ歌捨てたは形見厳守のためか

六月十七日(土)
明治三十二年までを読み終へた。明治二十九年までを古今調、それ以降を万葉調とする評論は、語彙で分類したのだらう。小生自身は、語を組み合はせた後の歌で判断する。
小生は、明治二十九年までを古今調だとは思はず、美しさがある歌だと思ふ。明治三十年からは、美しさが無くなる。そして万葉の語彙はほとんど無い。子規は、写生をまづ主張し、後から万葉を追加したのではないだらうか。
旧派を歌論で破り、それを実践したところに美しさがあるか。多作に依り、日記代はりの美しさか。

六月十八日(日)
定型にするところが美しい。これが、子規と小生の共通点だと思った。ところが明治三十二年辺りから、字余りが目立つやうになる。比率は、それほど高くはないのだが。
さて、次の歌は多くの歌集が代表作の一つとして選歌する。
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

四月二十一日の作だ。このあと、佳き歌が幾つも続く。五月一日以降「体温日記」と題のある章に歌が幾つか続く。体温が併記され三十九度前後だ。体調変化で、歌は逆に良くなったか。或いは五月十六日に「東宮御婚儀を祝する歌」と云ふ長歌がある。
短歌だけを作るのではなく、長歌を作ることで短歌も佳くなる。これは小生の歌論だが、子規にも当てはまる。
川下る我舟早みつゝじ咲く岸辺岩垣走るが如し

これも佳い歌だ。山形新聞三千号祝の五首のうち
山形の名を追ひて立つ新聞の三千号をいはひて歌詠む
三千日けに三千文書きし古筆を山に築かば花開くべし

は優れた作だ。三千は「みち」と読む。二つ目は和語の歌。一つ目は「新聞」「三千号」が漢語だが、美しさに変はりはない。小生は、和語でも歌を詠めることを示す為、和語のときは和語のみで作るが。
子規が歌会を始めたのは明治三十二年なので、門人たちが集まったのは、子規の歌によってではなく、歌論ではなかったか。そして当時は、子規の歌論に魅力が出るくらい、旧派が強かった。

六月十九日(月)
明治三十三年は、最後のほうに長歌があり、短歌が幾つも続くあと、旋頭歌が十首ある。そして翌年の新年の歌が四首あり、竹之里歌は終了する。
各書籍は、遺稿を集めて明治三十五年までを載せるのでそれらを読むと、明治三十五年は闘病日記として優れる。このあと遺稿を再度、最初から読むと、明治二十二年から漢語が入り、二十三年から美しさが無くなる。二十五年に復た佳くなる。

六月二十三日(金)
これまで三日間に読み進んだ感想は
二十一日 明治三十一年に突然悪くなるのではなく、その前から。一方で三十一年にも、次のやうに美しい歌もある。
杉むらの秋の日うとき下草に心強くも咲く薊(あざみ)かな
檜(ひ)の木山杉山越えて蔦(つた)の這(は)ふ木曾のかけ橋今見つるかも
夏衣まだぬぎあへぬ旅人の袖吹きかへす秋の初風

二十二日 明治三十三年に詠んだ次の歌は美しい。
八汐路の海をへだててつらなれる紀伊の国山曇りて暮れぬ

二十三日 三十一年に歌風が一変したため、美しい歌が無くなり、年を経るに連れて美しい歌が出てくるやうになったか。題材がよいと歌も佳い。岡倉天心が日本画の理論を組み立てて、横山大観などが絵を描いたのと同じで、子規が歌論を組み立てて、左千夫などが歌を作ったのでは、と云ふ気がしてきた。

六月二十五日(日)
子規の歌 旧(もと)の派及び明星が勢ひを持つ時のみに美しさあり だが子規は闘病記録これに打ち克つ

反歌  子規の死後左千夫壮大茂吉には留学記録これに打ち克つ
反歌  敗戦後世が一転し茂吉にも歌と評価でかなりの変化(終)

「良寛の出家、漢詩。その他の人たちを含む和歌論」(百七十)へ 「良寛の出家、漢詩。その他の人たちを含む和歌論」(百七十二)へ

メニューへ戻る うた(五百六十七)へ うた(五百六十九)へ