二千十八(うた)「近世和歌集」から真淵とその門下の歌
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
五月三十一日(水)
空穂は「真淵の門弟には歌人が多いが、最も傑出した人は田安宗武である。歌人としての素質の上からいふと、真淵よりむしろ宗武の方が優つてゐる」と云ふ。
窪田空穂全集で、小生は真淵の歌がよいことを指摘したが、確認のため小学館の日本古典文学全集「近世和歌集」を読んだ。やはり真淵のほうがはるかによい。空穂と小生で歌感が違ふことが、改めて判る。その理由を探るため、佳いと感じた部分を赤色にした。
小筑波も遠つあしほもかすみけり根こし山こし春来ぬらしも
小生は表現を重視、空穂は心の動きを重視かな。ところがこの後、異変が起きる。他に佳い歌が見つからない。つまり真淵の歌は、佳作がほとんど無い。しかし平均点は低くない。だから歌を続けて読んでも、心地が好い。
宗武は佳い歌が見つからない。読み進んでも心地が好くはない。宗武の歌は、真淵と異なり固い為だらう。
六月一日(木)
宗武の歌は、固い上に古今調だ。その理由が判った。書籍最後尾の解説に、宗武は
万葉調一色に染まる前の、堂上風をもっぱらとしていた時代の作五十六首をまとめて取り上げることとした。
さう云ふことは本文に書かなくては駄目だ。危うく見逃すところだった。著者は広島大学大学院教授だが、この程度のことも分からないのだらうか。
宗武の歌は固しともう一つ古今に似ると感じたが 本の著作者万葉に染まるの前を選択のため
反歌
宗武の歌は真淵に似る似ない似るものにても似る似ないあり
真淵について、三回目に歌を読み直して、理由が判った。真淵の歌は八一と同じで、読むと心地が良い。しかし清き水に魚棲まずで、すべての歌が頭に残らない。平均点は高いが、佳作が無い。昨日指摘したとほりだ。
六月二日(金)
魚(な)彦は真淵門下で、歌風も師匠と同じだ。だから読めば心地よい。しかし佳い歌はどれかと聞かれると困ってしまふ。これも師匠譲りだ。千蔭と春海も真淵門下だが、歌風は師匠とは異なる。と云ふことで、門下で紹介する歌が無い。
代はりに真淵より二十六歳年下の蘆庵の歌を読んだ。真淵は江戸、蘆庵は大阪と接点は無い。蘆庵の歌も、取り上げるものは無かったが、歌に理屈があることが気に掛かった。古今和歌集の「としのうちに春はきにけりひととせをこそとやいはむことしとやいはむ」について、子規は理屈が含まれると批判したが、小生は佳い歌だと思ふ。その小生が、蘆庵の歌は理屈があると感じるのだから、それなりにひどいのだらう。
ここで小生自身が作った歌のうち、旧駒込林町、よみせ通り、谷中銀座について、二首ばかり修正した(変更内容は、当初ここにあったが当該頁へ移動)。
歌集を読む場合に、その人の一番出來の悪い歌でその人を判断してゐることに気付いた。一番佳い歌で判断することが一番多いのだが、真淵、魚彦、蘆庵について悪い歌で判断してゐることに気付いた。一番良い歌で判断できないときは、どれだけ幅があるかで判断するのが良い。(終)
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