二千十七(普通のうた、和語のうた)旧駒込林町、よみせ通り、谷中銀座
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
五月二十九日(月)
用事があり、西日暮里で降りて旧駒込林町へ行った。
千駄木の三丁目にて仕事あり 元の駒込林町 古く駒込千駄木へ林町付き三段階に

反歌  昭和の世四十年頃東京に町名変更趣き消える
反歌  江戸の町明治維新でまづ変はり高度成長再び変はる
反歌  国内はプラザ合意で少しづつ退化を始め東京同じ
この辺りは、明治時代の史跡が多い。
江戸の内史跡が多く 江戸の外この辺りまで明治期に東京市内編入し その後高村光太郎森鴎外も家跡近し

反歌  明治期の史跡が多い駒込の狸山から観潮楼へ
本来なら、帰りに根津から上野を廻る筈だ。しかし雨が降ってゐたのと、午後に母をコロナ接種兼通院に連れて行く都合があり、帰りはよみせ通りから谷中銀座を歩き、日暮里から乗った。
商店街よみせ通りを中ほどへ 谷中銀座へ左折して 階段上り日暮里の駅前通り進み駅着く

反歌  全国で商店街が寂れ消えよみせ通りも例外ならず
この辺りは、本郷湯島台地が山の手、根津谷が下町だ。上野谷中台地は、寺町と下町の続きで、その訳は江戸の中心からは遠い。台地と谷の名は、小学校の社会科で習ったもので、その後、本郷湯島台と云ふ名称も本で読んだこともある。
台地では本郷湯島山の手の屋敷町にて 根津谷は下町にして商店と庶民の街でかつて活気が

反歌  下町も商店閉めてマンションが多く庶民が住めない街に
よみせ通りは、道灌山に近い側つまり西日暮里に近い側は、店がスカスカになってしまった。酒屋で]300ml八海山を買った(税込み599円)。九十年続き、三代目ださうだ。その先の谷中銀座に近いところはかつての賑はひだ。そして谷中銀座の賑はひは、昔のままだ。外国人観光客が多いのは、京都並みだ。道幅がこんなに狭かったとは、気付かなかった。
本日は日帰りの旅そのために唯一昼に酒許される

信濃の旅では、昼に酒を飲まなかったので、その代はりでもあった。隣で車を運転するのに、酒を飲むなんてそんな失礼なことをしてはいけない。
谷中銀座の終端には階段がある。かつて谷根千と云ふ地域雑誌があり、そこで夕焼け段々として紹介された。谷根千が名付けたのか、その前からなのか、階段の脇に夕焼け段々と書いてある。階段の上から右側の木造家屋を十軒ほど壊すのが見えた。もしや質屋「おぢさん」も、と行ってみると健在だった。小学生の頃、なぜ「おじさん」ではないのだらうと不思議だった。
七面坂(階段の南側の坂は、確かさう呼ぶと思ふ)から、階段に合流する三角地にかつては「おり」があり販売用の犬が何頭もゐた。今は自宅の駐車空き地になり、店は犬商品屋になった(と思ふ。数年前に来たときはさうだった)。日暮里駅前通りは、寺町なので高層ビルなどはない落ち着いた街だ。昔からのせんべい屋があって安心した。(終)

追記五月三十日(火)
「かきつはた」「おくのはら」「おく銀座」と同じやうに、まづ「よみせ通り」で作った。
よるひるに店が連なり背が集ふ通りは混みてり(里)の山暮れる

り(里)とは日暮里のことで、固有名詞の一字。「り」で始まる和語は無いので、解決するのに苦労した。次の一首は「やなか銀座」で
山二つ中の谷にて買ひ物は銀座の如く座(まし)て賑はふ

銀座は、固有名詞だ。銀をしろがねと読む方法は前回用ゐたので、今回は別の方法にした。

追記六月三日(土)
(『「近世和歌集」から真淵とその門下の歌』から移動)小生は、定型にすることで一つ目の美しさが出ると、主張してきた。だから理屈は有っても良いのだが、度が過ぎるといけないと感じるやうになった。変へたのは
千駄木の三丁目にて仕事あり 元の駒込林町 古く最初に駒込が中に千駄木最後林町

これを上記のやうに変へた。もう一首
江戸の内史跡が多く この辺り江戸の外にて 明治期に東京市内編入し それで高村光太郎森鴎外も家跡近し

これも上記のやうに変へた。

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