千九百六十九(うた) 大久保良峻(編)「天台学探尋」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月十六日(木)
良寛の渡航の有無を調べる為にもう一冊、大久保良峻(編)「天台学探尋」を借りた。第二章の一、松本知己「天台の実践論、止観概説」では
『次第禅門』では(中略)禅の一語で(中略)『摩訶止観』に至ると、同じ構想が、止観の語によって(以下略)

禅と止観は違ふのかと驚いたが、言葉遣ひの違ひだけのやうだ。
第二章の二、柳澤正志「天台の実践論、朝題目夕念仏・観心法門」では
法華と浄土の二つの法門の双修は智顗に源を発し、日本において円仁が朝課として法華三昧、夕課として常行三昧を定め(以下略)

良寛の詩や歌には、禅が一番多いが、阿弥陀仏のことが少しだが存在する。そして法華讃、法華転がある。法華と浄土の組み合はせが智顗に始まるとすると、その影響とも考へられるので、以後も見てゆきたい。
天台大師智顗は『国清百録』の記事では浄土願生者として伝えられているのであり、また『摩訶止観』の四種三昧中、特に常行三昧は阿弥陀仏を本尊とした観想念仏の行である。


三月十七日(金)
第四章伊吹敦「最澄の禅相承とその意義」で、最澄が五つの系譜を掲げてゐる。
a「達磨大師付法相承師師血脈譜」
b「天台法華宗相承師師血脈譜」
c「天台円教菩薩戒相承師師血脈譜」
d「胎蔵金剛両曼荼羅相承師師血脈譜」
e「雑曼荼羅相承師師血脈譜」

さて
最澄は南都で受戒した後(中略)突然、比叡山に入り、十二年に及ぶ籠山生活を開始したが、その過程で天台教学に開眼し、独学で学問を積み、次第に天台の学者としてその名が知られるようになっていった。

第六章梯信暁「天台浄土教の展開」では
天台宗の浄土教は、智顗(生存年略)にその起源を求めることができる。


今回の調査は、藤善真澄、王勇「天台の流転 智顗から最澄へ」と、今回の大久保良峻(編)「天台学探尋」に依った。始める前は、良寛渡航が否定されるのか、それとも肯定されるのか、まったく予想が出来なかった。
両論があるときに、最初から片方に固執することはしない。良寛が以南の子ではないとする説に対しても、最初は賛成したが今では八割方否定するに至った。
だから今回も全く予想できなかったが読み終へて、渡航説の信憑性が高くなった。中国天台宗は、禅と法華経の親和性が高い。密教との親和性は低い。日本の天台宗は、最澄が帰国してみると桓武天皇が密教に傾いてゐたため、法華経と密教の混合になった。
良寛は、真言宗の国上寺境内にある五合庵に居住したにも関はらず、詩と歌で密教に触れることがほとんどない。浄土や阿弥陀仏には触れるが、中国天台宗は智顗の時代から浄土とも関はりがあった。だから、良寛は渡航して仏道の意識を著しく増大させた。これが今回の結論となった。
良寛は 寒山詩から影響を大きく受けたことにより 良寛渡航に賛成を続けてきたが 中国の天台宗を調べれば 尚渡航説賛成となる

(反歌) 良寛が行方不明の数年は渡航説にて解決できる(終)

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