千九百六十七(うた) 藤善真澄、王勇「天台の流転 智顗から最澄へ」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月十三日(月)
山川出版から一九九七年に発行された藤善真澄、王勇「天台の流転 智顗から最澄へ」を読んだ。良寛が渡航したかどうかは、中国と日本の天台宗の違ひを調べる必要があるからだ。
藤善さんは関西大学教授で「安禄山と楊貴妃」などの著書がある。王勇さんは杭州大学日本文化研究所所長で「聖徳太子時空超越」などの著書がある。この問題に最適の二人だ。
第一編に入る前の総論で、智顗と同時代を生きた顔之推の
北朝の仏教界は禅定や誦経などの実践面が重視され、南朝では逆に講経や学解に偏る傾向がある

次に
智顗の教法に天台宗の称を初めて献じたのは、智顗六世の孫弟子で天台中興の祖と仰がれる(中略)湛然(七一一~七八二)である。彼は律・禅・華厳・法相にも造詣が深く(以下略)

。 その直弟子二人が最澄の師だが、一番注目すべきは真言が含まれてゐないことだ。
第一編は智顗についてで、藤善さんの執筆だ。第二編は最澄について王さんの執筆。つまり、日中が相互乗り入れになった。
智顗は、海に近い天台山の国清寺と、内陸の玉泉寺を拠点としたが、玉泉寺の
東方には禅宗六祖の慧能と同じく、五祖の弘忍に学んだ北宗禅の始祖、神秀にゆかりの度門寺がある。

更に、智顗滅後に
教団の凋落ぶりは決定的となり、唐前半期の玉泉寺は北宗禅の神秀・普寂の根本道場として知られ、天台の僧には無縁に近い有様であった。また国清寺も灌頂のあと智威-慧威の系譜が分かっている程度である。


三月十四日(火)
第二編に入り、智顗の師、慧思について
鑑真渡日の前後、中国ではすでに慧思が倭国に生まれ変わったという伝承が発生し、かなり流布していたようである。しかし、この伝説が日本の聖徳太子に結びつくためには、鑑真僧団の渡日(七五四年)を待たなければならない。

日本の奈良時代に
中国では、仏教の中国化を成し遂げた天台宗が、江南地域を中心として広く流布しているのに、なぜか「南都六宗」には含まれていない。

中国では
南北分裂の乱世にあって、特定の経典を報じて林立する仏教の諸派はそれぞれの学説を唱え、互いに相いれることはできなかった。そこで、智顗は対立する諸派の学説を容認しながら、『法華経』こそ釈迦の真説であることを明らかにしたのである。
(中略)僧侶に対して学派を超えて兼学の風習を流行させる結果となった。

鑑真より十八年前に、戒律の師として来日した道璿について
師の普寂から禅はともかく、律・華厳ならびに天台の学をも習ったといわれる。(中略)普寂は、北宗禅の祖(中略)神秀の弟子であるけれども、兼学的傾向の著しい博学の持ち主であった。

真言が入らないことは、貴重な情報だ。
良寛が居住し修行の五合庵 真言宗の塔頭で だが真言の影響は良寛の詩に見られずに 或いは渡航その影響か

(反歌) 良寛の詩にある阿弥陀木村家は真宗相手思ひ詠みたか

三月十五日(水)
中国の天台宗では、これまでに純粋な教学を伝える国清寺の系統だけが重んじられるが、兼学の傾向が著しい玉泉寺の系統は、むしろ軽視されがちである。この系統には道璿も鑑真もつながっているから、最澄以前に日本へ伝わった天台学はどちらかというと、玉泉寺系のほうであろう。

さて
道璿が(中略)山寺に退いたのは、病い(中略)、あるいは鑑真らの出現(中略)などと憶測されがちだが、普寂より受けついだ山林修行の禅法を自ら実践しようとしたためだったのであろう。

そして
鑑真の来日をきっかけに建てられた東大寺の戒壇院で、最澄は具足戒を受け(中略)ところが、わずか三カ月後(中略)比叡山にのぼり、山林修行をはしせめたのである。

二人の共通に注目した。
智顗の師、慧思は智顗、聖徳太子に転生したとする信仰があり
天台宗の日本への伝来に当たり、つねに慧思信仰をともなっている(中略)したがって、最澄の創立した日本天台宗を考えるさいには、慧思信仰を念頭におかなければならない。


三月十六日(木)
ここまで読んで、禅と天台は兼学するが、真言はしないことで、良寛の渡航説は濃厚になったと思った。最澄が密教を習ったのは、帰国直前に行った越州である。
ところが、矛盾する話が出てくる。最澄は
禅林寺の翛然から牛頭禅を受け、国清寺では密教を習った(以下略)

国清寺は純粋な教学、玉泉寺は兼学と、昨日紹介したばかりなので戸惑ふが、兼学は禅、律、華厳、天台で、密教はたまたま居合はせた高僧からかも知れない。
さて、最澄が帰国すると
桓武天皇はすっかり怨霊に悩まされて体調をくずしていた。(中略)天台の法文よりも密教の経本に飛びついたのである。

日本の天台宗が密教化するのはこのときからであり、中国の天台宗は密教化しなかったと考へたい。
天皇の密教への執着と傾斜は(中略)天台宗の弘伝に情熱を燃やして帰国した最澄にとっては、予想もしなかった事態だったのであろう。

一つの例外(国清寺では密教を習った)を除いて、禅、律、華厳、天台は兼学だと判った。徳川の宗教統制で本末制度が固定し、他宗との交流が途絶へたことは、日本独自の現象だとも判った。(終)

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