千九百四十四(うた) 前半は名著、高橋庄次「手毬つく良寛」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月十六日(木)
高橋庄次さんの「手毬つく良寛」を読み始めて、前半は名著だった。その理由は、四歳差の問題を解決するからだ。良寛が出家したのは二十二歳のときか、それとも十八歳のときか。
それを巡って、良寛が生まれたのは四年早く、以南は実父ではないとする説も出た。良寛と弟妹たちは、両親が同じだと確信するのは、漢詩と歌によってだが、或いは以南と良寛は弟妹にそのことを隠したのではないかとの疑ひは残った。
以南を良寛の実父と考へるのは歌によってだが、或いは江戸時代後期の人倫によって実父として行動したのではないかとの疑ひが残った。
これらの疑ひが残った理由は、良寛が光照寺で出家した、或いは参禅したとする主張が多いためだった。ところが高橋さんの「手毬つく良寛」は、この問題をきれいに解決した。
十八歳のときに子陽の三峰館を退学し、さらに生家を出てしまったのである。『北越奇談』はそれをこう伝える。
  その出づるとき、書を遺して中子に家禄をゆづり、
  去って数年音問を絶す。

そして
十八日朝、以南はあわただしく役所に他出願いを出した。もちろん栄蔵の行方を探すためである。(中略)良寛が後に詩に詠じているように、栄蔵少年は「父を捨てて他国に走」(中略)それとも知らず父以南は越後国内をただむなしく探しまわっていた。

あの漢詩はさう云ふ意味だったのかと感心した。
「良寛禅師碑銘并(あわせて)序」に、証聴が良寛から直接聞いた話をもとにこう書いている。
 夙(はやく)に根ざす所に因り、自ら出塵の志を懐く。安永八己亥、歳二十二、時にたまたま備の円通国仙忍老の行化を承く。(原漢文)
出塵は世俗を捨てて出家すること。

従って
  小小より文を学べども儒となるに懶く
  少年より禅に参ずれども灯を伝えず

高橋さんは三峰館時代を小小、十八歳を少年とする。この解釈に感心した。従来の、出家した後に灯を伝へなかったとする解釈が誤ったものだとよく判る。
  少年 父を捨てて他国に走り
  (中略)
  箇はこれ従来の栄蔵生
念のため訳出してみると、こうなろうか。
  少年栄蔵は父を捨てて他国に逃走し
  辛苦して虎を描こうと努めたが、結果は猫にもならなかった
  人がもしその心の中はどうかと問うなら
  わたしはこれまで通りの栄蔵のままだったと答えるしかない
父を捨てるとは家を捨てることだ。(中略)出家とは違うのだ。

多くの人が、良寛は半僧半俗だから栄蔵のままだったと解する。小生は、半僧半俗ではなく、当時の僧は寺請け制度で堕落したから、良寛は超僧だとする。だから従来の解釈には反対だった。高橋さんの解説に納得。
四歳差解決のためいろいろな仮説が過去に現はれた 家出と出家で解決をすれば他の詩の疑問も解ける

(反歌) 出家には両親による許可が要る跡取りにとり最難関に

二月十七日(金)
四年問題が未解決のときでも、以南は良寛の実父だと思った歌が出てくる。
うつせみは 常なきものと
むら胆の 心に思ひて(以下略)

次に漢詩で
  これ昔 少年の時
  錫を杖いて千里に遊ぶ
  殆ど古老の門を敲き
  周旋すること凡そ幾秋ぞ(以下略)

これだと、少年期つまり出家前に古老を訪問したことになってしまふが
「少年の時」になっている詩句は『貫華』本だけで、本田家本その他は
これ昔 少壮の時
の句型になっていたのである。

それにしても、多くの古老を訪ねたのに良寛にも古老側にも記録が無いのは不自然だ。小生が渡航説を信じる所以である。
話は飛んで
菅江真澄の遊覧記『久目路の橋』に、真澄が信濃国の松本に近い湯の原村の温泉で国仙禅師とその僧衆に出会ったことが書かれている。

御母家、湯の原、藤井の集落は二百メートルくらいしか離れて居らず、三つまとめて山辺温泉と称した。明治期に左千夫が歌会を山辺温泉で開いたことがあった。小生の祖母は御母家の出身である。
ページはずっと後方に飛び
おちぶれ果てた乞食(こつじき)の愚僧の姿で帰郷したのである。

ここで乞食(こつじき)とは托鉢のことで、僧侶が信徒に功徳を積む機会を与へてくれることでもある。乞食(こじき)とは異なる。良寛に詳しい人でも、乞食(こつじき)と乞食(こじき)を混同してゐるやうに思へてならない。
ページが更に後方へ飛び、「還俗への思い」と題の付いた節では、まづ良寛の連作「山陰五首」を紹介する。そのうち四首目と五首目は
④秋もやや残り少なになりぬればほとほと恋し小(さ)男(を)鹿(しか)の声
⑤奥山の草木のむたに朽ちぬとも捨てしこの身をまたや腐(くた)さむ

第四首は小男鹿の声が恋しいと詠ふものだし、第五首は山の庵に朽ちることは捨てた(出家した)この身をまた腐すことになるのか(いや、ならない)と詠ったものだ。それなのに高橋さんは
良寛には切実な思いを抱いた女性がいたのだろうか。④の「秋もやや残り少なになりぬればほとほと恋し」と言えば、もうそれは実質的には作者自身の恋心だろう。(中略)⑤歌を良寛は次のように歌う。<奥山の草木とともに朽ち果てようとも、出家して一度捨てたこの身を、もう一度捨てて腐らせ汚そうとは思わない>と。(中略)還俗することはないという決意にほかならない。

これは筋違ひも甚だしい解釈だ。そもそも連作の前半は
①山陰の岩根もりくる苔水のあるかなきかに世を渡るかも
②世の中に同じ心の人もがな草の庵に一夜語らむ
③この岡に爪木樵りてむひさかたのしぐれの雨の降らぬまぎれに

この流れから、恋だ還俗だと話が一転する訳がない。
せっかく前半で、四歳差問題を解決した名著だと誉めたのに、後半で駄目になった。(終)

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