千九百四十二(和語のうた) 石田吉貞「良寛 その全貎と原像」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月十三日(月)
石田さんの「良寛 その全貎と原像」を取り上げるのは二回目だが、白紙の状態で読み直した。と云ふか、前回はまったく憶えてゐない。
この本が出版されたのは昭和五十(1975)年。田中圭一さんの「良寛の実像」が出版される前だから、良寛の出生が四年前だとか実父は以南ではないとする説には触れない。そして良寛の出家が十八歳なのか二十二歳なのかについて、参禅と出家の二段階だとする。
小生は、この説に反対である。それは在家の参禅が一般化されたのは明治維新以降で、その前は僧侶のみが座禅を行なった。考へられる別の仮説は、沙弥になったのが十八歳、正式に得度したのは二十二歳と云ふものだ。しかしさう云ふ古文書はないし、これまで誰もさう云ふ主張はしてゐない。だから、小生は四年前出生説に賛成だ。
貞心尼が、歌集では良寛出家を最初二十二歳とし、見せ消ちで十八歳とした。知人の僧への手紙では最初十八歳とし、見せ消ちで二十二歳にした。つまり公には十八歳、本当は二十二歳だ。
次の話題に移り
良寛には生涯に二つの大きな転向があった。一つは俗人から出家への転向、一つは禅僧から隠遁僧への転向である。

柳田聖山さんの良寛中国渡航説が出る前だから、それには触れてゐない。小生は、渡航したことにより禅僧から全宗派僧になったと思ふ。それにより、行方不明だった時代をなぜ良寛が語らないかが解決するからだ。
遍澄について、同村の桑原仁右衛門(仁雷)老が昭和三十五年に『良寛と法弟遍澄』と云ふ小冊子を出し、そこには、
七、八歳のころ、同村の菩提寺妙徳寺に上がり、(中略)読み書きを学んだ。十四、五歳のころいったん家によびもどされたが(中略)一室に閉じこもって本ばかり読んでいたので、いつしか「鍛冶や良寛」といわれるようになった。
十五歳、(中略)良寛をたずね、弟子入りを請うて許され五合庵に住むようになり、翌年剃髪して名を遍澄とよんだ。

良寛の歌もあるから、これはおそらく正しい。これで、第一章「家」、第二章「生涯」まで終了した。

二月十四日(火)
第三章「内部生活」の第二節「禅」で
「葷酒山門に入るを許さず」、(中略)しかるにかれはもっとも酒を愛し煙草を好んだ。「文筆詩歌等、其の詮なき事なれば捨つべき道理なり」(括弧内略)、これは宗祖道元の貴い禁戒である。

まづ、日本の寺では酒を般若湯と称し飲用した。煙草は、今から二十五年くらい前までは戒律の厳しいタイの南伝仏道の僧が、煙草を吸ふ姿がよく見られた。煙草は戒律にないからだった。
同じやうに日本でも、僧が煙草を吸っても問題は無かった。尤も煙草は、今では駄目だらう。一般人でも吸ふ人が少ないのに僧が吸っては示しがつかない。今は一般人で酒を好まない人が多くなった。これはよいことだ。
第三章第三節「隠遁」では
中世様式の隠遁は西行に始まる。そしてその西行の系統は、連歌の宗祗、絵の雪舟、茶の利休、俳諧の芭蕉とつづき、遠く良寛のあたりまでいたって終焉をとげた。

この系統の共通点を探すと、芸術性の強い人は、状況によっては社会で生活できるし、状況によっては隠遁になるのかな。しかし明治以降は隠遁が困難になった。それより、小生は良寛を隠遁とは思はない。あれは仏道行為だ。渡航してああ云ふ形態になったとすれば説明がつく。
西行は社会を捨てて大自然のなかに逃れた。(中略)アジアの絶望の思想無常が、かれをそうさせたのである。

不同意の部分を赤色にした。不幸な状況では、無常は希望だ。例へば平家の圧政に苦しめられた人たちにとっては、諸行無常は希望だ。だから無常に隠遁への誘導性は無い。
今回の読書と同時期に、新潟県長岡地域振興局のホームページに
良寛たずね道 八十八ヶ所巡り

を見つけた。出雲崎、寺泊、分水、与板、和島の五地域に、合計八十八ヶ所だ。六月の旅行では、分水に行く予定だが、与板にも行きたくなった。寺泊は、あと大森子陽の墓だけだからどうするか。
玉島は母が帰宅に間に合はず日帰りできず 越後にはさつきの頃に行きたくて 今の呼び名は六つ目の月

(反歌) 玉島に行きたい気持ちはあるものののぞみに乗れずのぞみ叶はず
(反歌) 分水はとかまの歌の庵あり二つの家は今も人住む
(反歌) 与板にも次には行かう良寛を知る人々が多く居た街
(反歌) 寺泊もし行くならば良寛を導いた人墓のある街(終)

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