千九百三十九(和語のうた) 松本市壽「良寛という生き方」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月七日(火)
松本市壽さんの「良寛という生き方」は名著だ。まづ田中圭一さんの
良寛(栄蔵)が先夫新次郎の子として(中略)生誕を四年も前倒しする説をとなえた。(中略)説明するには興味ぶかい話のようだが、多くの面から検討してみてやはり無理があるといわねばならない。

田中説を無視するのではなく、紹介した上で否定するから、悪くはない。小生自身は、以南と良寛、良寛と由之の、それぞれ人間関係から、良寛は以南の実子と信じたい。その一方で、四年前誕生説にも賛成だ。二つは矛盾するから、どちらが正しいか、判らない。
良寛が家出をしてから国仙の弟子になるまでの四年間について
「家は荒村に在りて半ば壁も無く、展転して傭賃しつつ且く時を過す」とあるのは、(中略)日雇い労働で生活費を稼ぎながら行脚したことをいっている。

この解釈は、立松さんの解釈より正しいと思ふ。
円通寺は(中略)道元禅師の永平大清規と(中略)瑩山禅師の清規によるとしながら、「禅誦怠ることなく(以下略)

これについて
「禅誦」とは黄檗風の念仏にほかならない。

これは貴重な情報である。
国仙が亡くなったあと円通寺の住職となった即中について
名誉や地位への欲求が旺盛なことを見抜き、良寛は「ここは自分のいるべき所ではない」と心に決めたのであろう。

即中は永平寺五十世となるから、これはあり得る。
歌といえば(中略)堂上派流の歌風から、のちに『万葉集』の古歌を学び、次第に自然に対する感情移入が多くなり、良寛調と呼ばれる典雅な歌風になった。たとえば次の短歌である。
 この宮の森の木(こ)下に子供らと
      遊ぶ春日は暮れずともよし
 秋もややうら寂しくぞなりにける
      いざ帰りなむ草の庵に

二つの歌は、確かに美しい。歌集で読むと、頭が慣れてしまっておとなしい歌を見過ごしてしまいがちだが。
美しさ 前の言葉の終はりから次の言葉の初めまで 続けて起こす歌もあり得る

(反歌) 良寛の暮れずともよし美しいややうら寂しこれも優れる
(反歌) あり得るはありえるなのかありうるか好みに依りてどちらでもよし
「鵬斎は越後がへりで字がくねり」(中略)は、良寛の狂草体に魅せられ鵬斎も懐素を習ったその影響である。

良寛を真似てくねったとする書物が多いなかで、懐素を習ったところまで言及する情報は貴重だ。
五合庵時代から(中略)良寛の付き人として身のまわりの世話をしてきた遍澄(一八〇一~一八七六)が地蔵堂町の願王閣に迎えられ、良寛を世話する人がいなくなったため、遍澄の紹介で(中略)木村家に移った(以下略)

松本市壽「良寛の生涯 その心」では弟子だが、ここでは付き人だ。遍澄に言及しない書籍が多いから、或いは付き人が正しいかも知れない。
良寛を迎えた木村家では、(中略)表座敷に起居してもらうよう申し出たが、(中略)三間四方の木小屋に入った。木小屋とは(中略)大工が常駐して宿泊しながら木造り作業する場所で、相応の広さもある。

そして
島崎に来てから、良寛は近くの人ともよくつきあって親しまれた。(中略)信心深い熱心な浄土真宗のお婆さんに歌を作って書き与えたりしている。

阿弥陀仏の歌は、自分の為ではなく、お婆さんの為だった。今日はここまでで、第一章が終了した。

二月九日(木)
第二章は書の話なので飛ばし、第三章和歌の話に入り
知られている限り良寛が歌を作り出すのは、円通寺をはなれてからのことである。

これは常識的な判断だ。
帰郷以前の良寛は西行の歌を手本にしたと松本さんは云ふ。
西行の「山かげに住まぬ心はいかなれや惜しまれて入る月もある世に」と、『山家集』の「なにごとも変りのみゆく世の中に同じ影にて澄める月かな」は明らかに良寛に影響を与えた歌である。
 山かげの岩間を伝ふ苔水の
      かすかにわれは澄み渡るかも
 なにごとも移りのみゆく世の中に
      花は昔の春に変らず

西行と良寛の歌は、語彙に共通があるだけで、内容はまったく異なる。良寛は西行の影響は受けなかった。これが小生の主張である。このあと松本さんは
西行の歌のこころは、歌の技巧そのものよりも、仏門からの束縛をコントロールできるくらいの自由の余地を残すだけの余裕があり、良寛はそうした西行の人生態度に強くあこがれたのである。良寛の生涯をつらぬく、西行の影響の大きさを思わせる歌である。

これは全く違ふ。西行は歌で有名になり、良寛は徳川幕府の寺請け制度に反発し、その清貧と無欲で有名になった。歌で有名になったのではなく、書では有名の一部を担ったかも知れないが、書が無くても有名だった。
西行は僧と俗の中間、良寛は江戸時代後期の僧を超える超僧。立場が正反対だ。
良寛を中心とした国上山の文芸サロンがおのずと形成されたのであった。

として歌のやりとりを紹介する。なるほどこれは正しいだらう。
国学者で歌人の大村光枝が(中略)五合庵を訪ね一泊して以来、良寛も『万葉集』に注目するようになった。光枝はそれより十年前に出雲崎の橘屋を訪れ、(中略)由之や弟の宥澄(ゆうちょう)、妹みかにも歌の手ほどきをした。それは良寛が円通寺へ修行に行っていた留守宅でのことであった。

これは貴重な情報だ。
光枝は(中略)良寛には敬意をもっており(中略)「国上山といへるにすめる何がしの大徳」と尊称で読んでいる。

そして
斎藤茂吉は書いている。「良寛の歌には、ほかの歌人が作ればすでに厭味に陥りさうなところを(中略)何がなし好く響く。これどういふ訳かを予は考へなければならない」と。
(中略)また、茂吉の師、伊藤左千夫も、良寛の歌は「心に響きをさながらに響かせたもの」で、しかも「おのれの歌が人の歌に類(たぐひ)することあるともあらずとも、それらの事に一切頓着せず(中略)或(あるい)は新し或はふるしなど云ふ事だも念頭に置かざりしものの如し」であったと評した。


二月十日(金)
第四章の詩では
はじめての良寛の詩集は『草堂集貫華』である。(中略)文化八年(一八一一)で、(中略)前年の文化七年には弟の由之が「家財取り上げ所払い」で出雲崎を追われ、(中略)翌文化九年には(中略)はじめての歌集『ふるさと』が作られるのである。

このあと草堂詩集から草堂集へと発展する過程と、その間での推敲は有意義な情報だった。ところがこのあと見るべきものが無くなる。特に夏目漱石がひどい。そしてそれは第五章へ続く。せっかく『「良寛という生き方」は名著だ』と誉めたのに、最後は逆の結果になった。これは今回の特集を独立させる前の「『新潟新報』の文化欄にお願いして、平成十二年七月十七日から(中略)コラム連載を八十二回まで書かせていただいた。」による。連載物は、後のほうで質が落ちる。とは云へ、前半は優れるし、貴重な情報も多い。(終)

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