千九百三十七(うた) 「立松和平が読む 良寛さんの漢詩」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月四日(土)
「立松和平が読む 良寛さんの漢詩」は優れた書籍である。今まで「たてまつかずへい」と云ふ名を知らなかった。最終ページに立松さんを紹介する記事が九行ある。そこに
自然環境保護問題にも積極的に取り組む。

とあり、小生と共通点がある。立松和平さんをインタへネットで調べて「たてまつわへい」と読むことを知った。
自然保護今一番の優先だ 西洋野蛮文明に任せてゐたら星は滅びる

(反歌) 良寛の漢詩を読みて西洋に毒される前探すは楽し
最初の漢詩「一たび家を出でてより」について
良寛が故郷に帰った姿は、ぼろを身にまとい、(中略)その姿に、懺悔行を感じる。
では何に向かっての懺悔なのか。(中略)橘屋を継ぐべき身でありながら一人出家し、いわば家を捨てたことである。橘屋は(中略)弟由之の題で消滅した。(中略)父以南は、京都の桂川に投身自殺をした。

良寛が故郷に帰った姿は、性格によると思ってきたから、懺悔は立松さんの新鮮な感覚だった。

「子陽先生の墓を吊(弔とむら)う」の漢詩では
栄蔵は、八歳の頃(中略)三峰館に通った。(中略)二十九歳で江戸遊学した子陽は(中略)三十三歳で地蔵堂に戻り(中略)三峰館を再び開塾する。栄蔵十三歳の時であった。良寛が漢詩を自在につくる素養を持つことができたのは、十三歳から十八歳までの子陽の薫陶が大きいのである。

小生は今まで、漢詩を学んだのは円通寺時代だと思ってきたが、立松さんが正しい。

第二章「僧・良寛」では「僧伽」の漢詩で
まわりの現実が(中略)戒を平気で破り(中略)およそ二百三十年前の江戸時代も、その実態はたいして変わらないものだなと(以下略)

今と、良寛の二百三十年前が変はらないと立松さんの感想である。同感だが、かうなったのは江戸時代に寺請け制度を強制したためだ。江戸時代の前まで、神道は仏道にどんどん集合したのに、これ以降離れるやうになった。魅力を喪失したのだらう。

「傭賃」の漢詩では
「展転として傭賃して且(しばら)く時を過す」とは、あっちこっち点々として日雇い仕事で時を過ごしているという意味だ。(中略)労働をすることの中にも真実があるということだ。

小生も、立松さんの解釈が一番いいと思ふ。しかし本当に正しいのだらうか。あちこちでお経をあげお布施を貰ふことを傭賃と表現したとする書籍を読んだことがある。

「憶(おも)う円通に在(あ)りし時」の漢詩で
円通寺にあった時も、寺を出てからも、良寛の指針になったのは(中略)『景徳伝灯録』に登場する古仏たちであったようだ。

漢詩に古い時代の禅僧が登場する。それを古仏たちと表現した。

二月五日(日)
第三章「乞食行」に入り「乞食」の漢詩では
子供たちが(中略)去年のあのおかしなお坊さんがまたきてるよ。今年もまた遊んでくれるよ。その様子を見て良寛も嬉しくなるのだった。

立松さんのこの解釈は大賛成だ。この部分を悪く解釈する本がほとんどだ。

第四章「五合庵」で漢詩「五合庵」は
かつての国上寺住職万元阿闍梨の隠居所であった。

柳田聖山さんは
相馬御風が紹介する資料によると、万元は流れ者で、きちんとした真言僧ではなかったようです。

とするから、大きな違ひだ。
五合庵を世話し、住めるよう修繕をしたのは、三峰館時代の学友で(中略)医者をしていた原田鵲斎(有則)であったと推定される。(中略)鵲斎には「良寛上人を尋ねる」の詩がある。
苔の径(みち)は渓水に傍(そ)い
来り尋ねる丘岳(きゅうがく)の陰
雲は深し燈火の影
鳥は和す木魚の音

ここで注目するのは「木魚の音」だ。良寛は読経をして木魚も使った。四国で「了寛」と同宿したが、読経も座禅もしなかったとする出版物がでたらめだと分かる。
詩は「重ねて問う古禅林」で結ばれ、この山中の庵こそ古仏たちが弁道をした修行道場と鵲斎には感じられたのであった。

これは同感。
良寛の五合庵こそ古禅林 立松さんと鵲斎と小生もまた確信を持つ

(反歌) 良寛は唐土(もろこし)へ行く道元と寒山詩とで心を磨く(終)

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