千八百九十(うた) 古今集、新古今集を読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十二月三日(土)
昨日から、古今集と新古今集を読み始めた。これで二回目だ。一回目は二年前に、原文と口語訳を読んだ。読み始めたものの、限りなく斜め読みに近い縦読み(縦書きだから一応全部を読んだ)になってしまった。
あの当時は、明治以降の歌は目にしたくないので、万葉集と古今集を読んだ。そのとき身に付かなかったのは、掛詞や序詞を理解しないためだと、自身を診断した。その後、明治時代に進出し空穂、水穂、赤彦、茂吉、左千夫、子規、牧水、みどりを読んだ。その前に良寛があった。
一昨日まで万葉関係の書籍を読み続けので、視点を変へて古今集、新古今集を読むことにした。まづは小学館の「日本の古典を読む5 古今和歌集 新古今和歌集」である。編者の選んだ三百首だけなので、まづはお手柔らかにと云ったところだ。
一番の佳作は先頭の
年のうちに春は来にけりひととせを(以下略)

子規は、古今集批判でこの歌をやり玉に上げたが、小生が思ふに佳作だ。小生と子規との歌感の違ひが現れた。ところがその後は六十首(小学館のこの本で)ほど後の三一五
山里は冬ぞさびしさまさりけり(以下略)

まで飛ぶ。やはり小生は古今集に合はないのか、と思ってしまふ。歌自体ではなく、古今集で嫌なのが詞書と掛詞だ。歌の前は作者名などに留め、説明は後にすべきだ。説明があると先入観が入る。
巻十一恋の歌一に入り、この本では三首目の四七八
春日野の雪間をわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも

「草の」までが「はつかに見えし」の序詞。古今の恋の歌は上品で、万葉集の相聞よりはるかに佳い。しかも恋の歌一から恋の歌五まで、時系列になってこれは優れた特長だ。とは云へ、恋歌は序詞がないと安定が悪い。
古今集恋の歌では時系列並ぶ五つは歌も高潔

続いて新古今に入る。新古今は佳い歌が多い。三五の
なごの海の霞の間よりながむれば入(い)る日をあらふ沖つ白波

これは立体的に美しい。

十二月四日(日)
次に、すべての歌が載る河出書房新社の「古今和歌集・新古今和歌集」を読み始めた。原文と口語訳のうち、口語訳はほとんど読まない。前回もさうだったことを思ひ出した。そして、退屈な歌が続くと思ひながら巻第六までの四季を終へた。生活と離れた歌、貴族が暇つぶしに作った駄文。そんな印象だった。
巻第七賀の歌、第八離別の歌、第九羇旅の歌は、美しさが戻る。物名は、さう云ふ作歌環境に長くゐれば面白いのだが、現代人はさう云ふ環境にない。恋の歌は個々の歌を見ては駄目で、各巻の段階を味はふところに美しさがあるのかも知れない。巻第第十六哀傷の歌から普通の美しさがまた戻り、雑の歌で頂点に達する。雑体と大歌所御歌は、時間を掛けないとよく判らない。
古今集四季と序文が欠点か六人よりも下手な貴之

個々の歌の批評ならまたしも、六人を言葉が足りないなど批判する貴之は、頭が足りないに違ひない。子規が下手な歌詠みと称したのは当然である。一年くらい前だらうか、土佐日記を読んだことを思ひ出した。貴之の貴族としての思ひ上がりと、登場人物が作ったことにした歌を下手だと批判する態度が不快なので、読んだことすら公開しなかった。

十二月五日(月)
昨日と同じ「古今和歌集・新古今和歌集」で、本日は新古今を巻第八まで読んだ。これまで新古今は、誰かが選歌したものを読み、すべての歌は今回が初めてだ。
古今では、四季の歌に貴族性を感じて嫌悪したが、新古今ではそのやうなことはなかった。とは云へ、春から秋までは退屈な歌が多く、秋の終はりから冬になって佳い歌が多くなったのは、自然の厳しさのせいか。
そのやうな中で、七夕の歌は美しい。夏の七夕より秋の七夕が佳いのかも知れない。
秋と冬落葉と寒さ夜の長さ貴族を越える美しさあり


十二月六日(火)
巻第九と第十は、美しい歌が多い。九は旅出つ人を見送る歌、十は自身が旅に出る、または出たあとの歌だ。巻第十一からは恋歌だ。隠喩がまれにあり、この巻になければ気付かない。隠喩を用ゐることが美しさでは、と思へてきた。巻十二以降、隠喩のない恋歌は退屈だ。

十二月八日(木)
巻十四、十五の恋歌四、五を縦読み(すべて読む、原文だけだが)した。一昨日は巻十四でページ読み(ページをめくるだけ)になったため、再度読み直した。感想はまったく変はらなかった。
巻十六は「雑歌 上」なので期待したが、縁語は貴族趣味か。特に一四四六の「春霞たなびきわたる折にこそかかる山べはかひもありけれ」で感じた。解説に
「春霞」に天皇を、「山べ」に女御を暗示し、「かひ」に「効」と「峡」をかけ、山の縁語。

とある。隠喩も貴族趣味か。隠喩の評価が、恋歌と正反対だ。先へ行っても、生活とかけ離れた貴族趣味。一四七八の「すべらぎの木高き䕃にかくれてもなほ春雨に濡れむとぞ思ふ」の口語訳に
大君の高大なお蔭を受けながらも、なおその上に春雨のような君恩に浴したいと思うことです。

とあるからだ。新古今は駄目とする人は多いが、この巻のことではないか。
その後、月を詠む歌で急に佳くなる。月に寂しさと美しさがあるためだ。巻十七「雑歌 中」に行き、悪い歌が無くなる。やっと正常に戻った。

十二月九日(金)
巻十八へ入る。隠喩は、貴族の堕落と出世欲。巻十九と二十も最後まで読んだが、特に感想はなし。固定思想を冷淡に感じるのは、反日カルトなど社会の変化が原因か、それとも固定思想を文化の一部とする小生の変化か。実は昔から固定思想は文化の一部と主張してきたから、小生のへんかではない。
新古今集は一部を除いて、年中上昇志向、年中うつ病、年中発情期。そんな人たちの歌集ではないか。読み終へて、そのやうな感想を持った。序文の
昔今の時を分けず、貴賤の身分にかかわりなく、また目に見えない神仏の言葉も

を読んだとき、古今集の欠点を克服したかと一旦は喜んだ。この喜びが間違ひだったか、或いは正しかったかは、今後も新古今集をときどき読み返して結論を出したい。(終)

「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百二十)へ 「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百二十二)へ

メニューへ戻る うた(四百二十九)へ うた(四百三十一)へ