千八百五十一(うた) 東日暮里、根岸、下谷
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十月十二日(水)
前回に続いて荒川区東日暮里へ行った。少し歩くと台東区根岸だ。帰りに、下谷にある我が家のお墓にお詣りをしてきた。
途中、御行の松がある。江戸時代は名所で、大正十五年根岸御行ノ松として天然記念物指定されたが、昭和三年に枯れた。昭和三十一年に上野中学校から松が移植されたが十数年で枯れた。昭和五十一年三代目が植ゑられた。
江戸時代と明治の地図が掲示され、江戸時代は日光道中沿ひに坂本、金杉の街並みが続く。少し道中を離れると、坂本村、金杉村になり、坂本村は背後に寺が街並みの四倍くらいの幅で並ぶのは、寛永寺に近いためか。その背後は、坂本村、金杉村になる。金杉村の北は谷中本村で、日暮里も根岸も載らない。どちらも風流な地名なので、明治以降市街化とともに出てきたのだらう。子規の俳諧が二句掲げられてゐた。
松一本根岸の秋の姿かな
青々と冬を根岸の一つ松

二句目はよいが、一句目は大した出來ではない。子規は俳諧だが、私は歌を作った。
根岸には石油タンクが立ち並ぶこれは横浜磯子区根岸
場違ひな歌を作りて取り消さず堂々載せる呆れたものだ

更に歩を進めると、手児奈せんべいと云ふ小さめの小売店がある。店のばあさんと近所のばあさんが雑談をしてゐたので、そのまま先へと歩いた。
葛飾と江戸坂本に手児奈ありお堂お墓と片やせんべい

手児奈せんべいを左折の後、入谷の地下鉄駅の交差点を渡った。これは入谷駅に出入り階段が二つあることを知らなかったため間違へたことで、渡らず右折すれば近かった。何とかお寺に到着し、お墓参りを済ませた。
昼と夜同じ長さが彼岸にて我が墓参り月遅れかな
ひと月を過ぎてお墓に来てみれば花立ては藻が大自然かな
大自然破壊滅亡止めないと先人たちに申し訳なし


十月十五日(土)
下谷の地名は、何か変だ。小学生のときからずっと思ってきた。その理由は、一番目に入谷と間違へやすい。二番目は、かつてトロリーバスに坂本二丁目と云ふ停留所があった。台東区立坂本小学校に至っては、数年前まであった。
下谷の理由が今回分かった。かつて下谷は上野広小路近辺の地名だった。下谷区ができて区名になり、戦後は浅草区と合併し台東区になった。旧下谷区は町名の先頭に下谷を付けた。昭和四十年頃の住居表示で、各地名の先頭から下谷が無くなるとともに、坂本と金杉が下谷になった。下谷の地名を残す為、無理やり繕っただけではないか。
恐れ雑司が谷の鬼子母神 恐れ下谷の鬼子母神 恐れ入谷に鬼子母神無し

逆の例に、荒川区荒川がある。かつて荒川区三河島だったのに、住居表示で荒川にしてしまった。区名が荒川だから三河島を残せばいいのに。
かうなった理由は、川の荒川は都内に入ると隅田川と名を変へる。今は岩淵水門から下流は隅田川だが、私の記憶だと昭和四十年頃まではもう少し下流の鐘ヶ淵辺りで名を変へた。と云ふことで今は荒川に面しない。
苦肉の策として、区役所のある三河島の地名を荒川に変へてしまった。
恐れ三河島の鉄道事故 恐れ千住の小塚原 恐れ千住は川の北 恐れ千住のお化け煙突

私はお化け煙突を実際に見た最後の年代だらう。常磐線に乗ると、煙突が四本見える。それが三本になり二本になり一本になる。一本の時は太かった。また二本になり三本になり四本に戻る。それより当時は小学校低学年だったから、なぜ煙突が電車といっしょに走るのか(近くの景色は後ろに移動するのに)が不思議だった。煙突が一本になるのは重なったからだ。そんなことは小学生だって分かる。

十月十九日(水)
本日は東日暮里の帰りに、母の伯母(私からは大伯母)の嫁ぎ先の老舗に寄った。初代店主も信州出身だと知り、なるほどと納得した。江戸時代の古文書もあるさうだ。二代目の奥さんは、越前出身で橋本佐内の直系ではないが親戚ださうだ。
私の祖父(母の父)は大伯母の弟で、やはりこの近辺で店を持ったらしいが、そのことはご存知なかった。無理もない、現店主は四代目、私は大叔母から三代後。姉弟の年代差があるが、私のほうが詳しくなくてはいけない。
祖父の元の苗字(養子に出て苗字が変はった。長野県知事に元に戻してほしいと手紙を書いたが駄目だった)の人の名も出た。お墓はこちらのお墓の隣にあったが、松本に移したさうだ。母は、六十七年前の婚礼の日に、このお店で着替へて根津の家に行った。

十月二十日(木)
帰宅後母に訊くと、母の伯父で「たけおじさん(先頭の「た」にアクセント、「お」にも弱いアクセント。これは今の東京にはないアクセント)」だと判った。昨日の話と、本日の母の話を合はせて全容が分かった。全容をはがきに書いて四代目に送った。
店が協力したNHK朝のテレビ小説名も分かったので、帰宅後に番組を調べると、なるほど主人公の親の商売だ。やり方を指導し店内で撮影も行ったさうだ。その前に、民放が実名でドラマを作ったこともあったさうだ。
松本と東京根岸の老舗には祖父と大伯父勤めた跡が 話に残る

祖父は関東大震災のあと松本に帰り、次兄が養子に入った店に勤務した。母が五十年くらい前に、祖母は信州弁に戻ってしまった、と云ったことを今でも覚えてゐる。

十月二十六日(水)
本日は東日暮里の最終日だ。終了後に子規庵の前まで行った。新型コロナ騒ぎ以降、月に何回かの開館日以外は入館できないことが分かった。ホームページには、さう云ふ記述はなかったが、帰宅後に見たら更新されてゐた。
開館日だったとしても、建物の前まで行くだけの予定だった。それはホームページの「子規を取り巻く人々」に賛成できない発想があるためだ。茂吉の後継者たちが左千夫との関係を無視したいのも、その発想が原因であらう。もう一つ、新しいページを表示する時に、変な動画が短時間出る。これもよくない。保存会の役員名簿を載せるのもよくない。予算の足りないなかでの活動は分かるが、寒川鼠骨等の努力は偉かった。それにしてもすぐそばまで迫る鶯谷駅側の怪しげなホテル群には驚いた。
子規庵の屋内と庭は清くとも路地の南に汚れ広がる

このあと日暮里方向へ行き、京成がJRを乗り越えるため曲がるところの歩道橋を渡った。かつては手すりの上から京成や下を走る国鉄を見ることができたのに、今は高い柵ができてしまった。谷中墓地の一番線路側の低い通路はかつては抜けられなかったが今はできるのかと歩いたが、やはり行き止まりだった。その少し手前から石段を上がり、天王寺の前を歩いて電車で帰宅した。南口ができたことを初めて知った。
京成が曲がる手前に歩道橋かつてここまでよく自転車で
(終)

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