千八百三十七(和語のうた) 「名歌辞典」を再度読む(その五)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
九月二十四日(土)
最近、古歌を鑑賞する時に、「あ、い、う、お」を含む句に、字余り感を感じなくなった。佐竹昭広さんの「字余り法則の発見」を読んでから、進化した。
「か」に入り
香具山のをのへに立ちて見渡せば大和国原早苗とるなり

藤簍(つづら)冊子(ぶみ)。「香具山」「をのへ」「国原」「早苗」と美しい単語をたくさん使った。あと「大和国原」の組み合はせも美しい。
陰草(かげくさ)の生ひたる宿の夕影に鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも

万葉。「陰草の生ひたる宿」「夕影」が美しい。しかし「飽かぬかも」は拙劣な印象を受ける。或いは万葉の時代との語感の相違か。
春日野に煙(けぶり)立つ見ゆをとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも

万葉。「煙立つ見ゆ」「摘みて煮らしも」の組み合はせが美しい。万葉の時代との表現の差は、今回は美しさより、時代差があるから仕方がない、に変はった。
「霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつこの日暮らしつ」は有名だから、先へ行き
風の音(と)の遠き我妹(わぎも)が着せし衣(きぬ)たもとのくだりまよひ来にけり

万葉、東歌。「風の音の遠き我妹が着せし衣」が美しい。後半の簡単な筋書きも美しい。
風吹けば落つるもみぢ葉水清み散らぬ影さへ底に見えつつ

古今。二句切れの後の展開が美しい。
形見とて何か残さむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉

良寛歌集。良寛の生活と重ねると美しい。「弟子への形見に」とあるので生活指標としても美しい。
かち人の渡れど濡れぬえにしあれば又あふ坂の関は超えけり

伊勢物語。「え」に「えにし」を掛け、二句までが三句以降に意味で繋がり、「あふ坂」に「会ふ」を掛ける技巧が美しい。
葛飾(かづしか)の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し念ほゆ

万葉、赤人。「真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ」が美しい。
葛飾(かづしか)の真間の浦廻(うらみ)をこぐ船の船人騒ぐ浪立つらしも

万葉、東歌。「葛飾(かづしか)の真間の浦廻(うらみ)をこぐ船の」までが美しい。までが、を強調したのは、その後は美しくないのに前半で稼いだ。地名は大切だ。今回は歌枕でもある。
葛城やたかまの桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲

新古今。この歌も歌枕で美しい。もちろん桜と白雲は美しい。
川の瀬に洗ふかぶらの流れ菜を追ひ争ひてゆくかもめかな

向陵集。「流れ菜を追ひ争ひてゆくかもめ」が美しい。
かはほりの飛びかふ軒は暮れそめてなほくれやらぬ夕顔の花

うけらが花。「かはほりの飛びかふ軒」と「暮れそめてなほくれやらぬ夕顔」の対比が美しい。
甲斐が根をさやにも見しかけけれなく横ほりふせるさやの中山

古今、東歌、甲斐歌。「けけれ」は心の訛だ。それが古今に載るのは美しい。
壁たてるいはほとほりて天地(あめつち)にとどろきわたる滝の音かな

柿園詠草。「いはほとほりて」を「いはほ伝はり」にするとよくならないか。当時は、個体を音が伝はる発想が無かったのだらうか。
かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入(い)る名をぞとどむる

太平記、楠木正行。「梓弓」が後ろから掛かるところが美しい。
神無月ふりみふらずみ定めなきしぐれぞ冬のはじめなりける

後撰和歌。「ふりみふらずみ定めなきしぐれ」「冬のはじめ」が美しい。
かやの実の嵐におつるおとづれに交じるもさむし山雀(やまがら)の声

晩林光平全集。解説に無いが、「おと」は「おとづれ」に掛かるのでは。それが有効に効いて「交じるもさむし山雀の声」が美しい。
韓国(からくに)の城(き)の上(へ)に立ちて大葉子(おおばこ)は領巾(ひれ)振らすも日本(やまと)へ向きて

日本書紀。この時代は、字足らずは問題なかったのかも知れない。「領巾振らすも」は「領巾を振らすも」にすれば七文字になるのに、さうはしなかったのだから。
「唐衣きつつになれし妻しあれば(以下略)」は有名なので次へ進みたい。

九月二十五日(日)
「き」に入り
紀の海の南のはての空見ればしほけにくもる秋の夜の月

藤簍冊子。「紀の海の南のはての空」「しほけにくもる」が美しい。
紀の国の高ねの奥の古寺に杉のしづくを聞き明かしつつ

良寛歌集。「高ねの奥の古寺」「杉のしづくを聞き明かし」が美しい。解説は「高ね」を高野山とするが、それでよいのか。
きのふこそさ苗とりしかいつの間に稲葉そよぎて秋風の吹く

古今。「いつの間に」「稲葉そよぎて」が美しい。
きのふだに訪はむと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり

新古今。「きのふ」は夏を表わす。その判じ物が美しい。
昨日といひ今日と暮らしてあすか川流れて早き月日なりけり

古今。明日と「あすか川」、川の流れと月日の流れを掛けた工夫が美しい。
「く」に入り
草香江の入り江にあさる蘆鶴(あしたづ)のあなたづたづし友なしにして

万葉。声調が美しいと感じることだらう。だが声調は美しく作らうとして作れるものではなく、たまたまなるものだ。あと、声調とは発音だけではなく意味や字を含めたものだ。あと、地名が美しいと美しくなる。
これらを除くと、この歌の美しさは「蘆鶴」。万葉の時代との表現差を美しいとするなら「あなたづたづし」。
「け」に入り
今日もかも明日香の河の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけかるらむ

万葉。「今日もかも明日香の河」が美しく、「夕さらずかはづ鳴く瀬の」も美しい。
今日もかも沖つ玉藻は白浪の八重折るが上に乱れてあらむ

万葉。「白浪の八重折る」が美しい。
「こ」に入り「こたへする声おもしろみ山彦を(以下略)」は前に取り上げたので先へ進み、「こち吹かばにほひおこせよ(以下略)」も有名なので先へ進み
子どもらと手たづさはりて春の野に若菜をつめば楽しくもあるか

良寛歌集。「子どもらと」「若菜をつめば」が美しい。
「こどもらと手毬つきつつこの里に(以下略)」は有名なので先へ行き
木の葉ちる宿は聞きわく事ぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も

後拾遺和歌。全体の情景が美しい。
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

古今。「木の間より」「心づくしの秋」が美しい。心づくしは、あれこれと気をもむこと。
子らが手を巻向山(まきむくやま)に春されば木の葉凌ぎて霞たなびく

万葉。巻向山の地名選択に尽きる。巻くの枕詞「子らが手を」も引き寄せた。
これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子(あまをとめ)ども

万葉。「これやこの」「名に負ふ」が美しい。
「これやこの行くも帰るも(以下略)」は有名なので次へ進み「さ」に入る。
埼玉(さきたま)の小埼(をざき)の沼に鴨ぞ翼(はね)きる 己(おの)が尾に零(ふ)り置ける霜をはらふとにあらし

万葉。旋頭歌なので取り上げた。「翼きる」「己が尾」「零り置ける」の表現時代差が美しい。
防人に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に手放(てはな)れ惜しみ泣きし児らはも

万葉、防人歌。万葉に人気のある理由は東歌、防人歌にある。声調が美しい。「防人に行くはたが夫と問ふ人を(以下略)」は有名なので次へ進み
さく花に遊ぶを見れば鳥だにもはむことのみは思はざりけり

草径集。全体の意味が美しい。
桜田へ鶴(たづ)鳴きわたる年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴(たづ)鳴きわたる

万葉。地名と「潮干」が美しい。「ささなみの志賀の大曲(おほわだ)よどむとも(以下略)」は有名なので先へ進み
さざれ波磯巨勢道(こせぢ)なる能登湍(せ)河音のさやけさたぎつ瀬ごとに

万葉。磯を越すを、巨勢道の序詞にした。地名が美しく、「たぎつ瀬ごと」も美しい。
さびしさに煙をだにもたたじとて柴折りくぶる冬の山里

後拾遺和歌。「煙をだにもたたじ」「柴折り」「冬の山里」が美しい。
佐保河にさばしる千鳥夜更(よくだ)ちて汝(な)が声聞けば宿(い)ねかてなくに

万葉。「さばしる」「夜更ちて」「宿ねかて」と時代差の表現が美しい。万葉の時代も、これらと「佐保河」が美しかったのだらう。
狭井河よ雲立ちわたり畝傍山木の葉さやぎぬ風吹かむとす

古事記。前回「畝傍山昼は雲とゐ夕されば(以下略)」で取り上げたのと同じ状況の歌。
「し」に入り
志賀(しか)のあまの塩焼く煙(けぶり)風をいたみ立ちは上(のぼ)らず山にたなびく

万葉。志賀は福岡市の志賀島。「)風をいたみ」「立ちは上らず」に時代差を感じる。
志可(しか)の海女はめ刈り塩焼きいとま無み櫛笥(くしげ)の小櫛(おぐし)取りも見なくに

万葉。志可は前の一首と同じ。前の一首は巻七、この歌は巻三。その違ひか。庶民の生活を詠ったところが美しいが、謡ったのは庶民ではなかった。
信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く声きけば時すぎにけり

万葉、東歌。須賀は松本市西部のほか幾つかの説がある。「信濃」「須賀」「荒野」「時すぎにけり」。これらが美しい。
「す」に入り
住吉(すみのえ)の名児(なご)の浜辺に馬をたてて玉拾(ひり)ひしく常忘らえず

万葉。玉とは石や貝など玉の材料とある。それを拾ふことが万葉に選歌された理由は何だらうか。「住吉」「名児」しか残らない。
これで「す」が終了し、「せ」から始めて一周した。
あいうおの音(ね)余り調べを悪くせず選び方にも変はりができる
あいうおで音(ね)余りの歌その中に優れたものを多く見つける
(終)

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