千八百三十一(和語のうた) うたに字余りは絶対にいけない
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
九月十六日(金)
かつて和歌では、「あ、い、う、お」を含むと破調にならなかった。だが今の時代では、これらを含んでもやはり調べの悪さが残る。当時と今は、謡ひ方が違ったためだらうと自身に言ひ聞かせても、やはり駄目だ。
その理由が分かった。塙書房から昭和六十年に出版された萬葉集研究 第十三集」に毛利正守「万葉集における字余りの様相」が載る。
字余りをきたす主な条件としては句中に母音音節(ア・イ・ウ・オ)を含むということが挙げられよう。ただし、(中略)そうなるものとならないものとに大別される。

既に毛利さんはそれまでに、次を指摘してきた。
(a)グループ 短歌第一・三・五句、長歌五音句・結句、旋頭歌第一・三・四・六句。
(b)グループ 短歌第二・四句、長歌七音句、旋頭歌第二・五句。
句中に母音を含んで、(a)グループはほとんどの例が字余りを生じるグループであり、(b)グループは字余り例も多いが、字余りを生じない例(以下、非字余りとも称す)の方が遥かにそれを上回るグループである。(古今集においても同じ結論が導かれる)。

今回の調査で毛利さんは、「有り」について考察した。ここでもう一つ前提として、例へば「人にあらなくに」は
「人に」と「あらなくに」との結合度が高まって「人ならなくに」に近づく(以下略)

一方で「いざわ出で見む」は
両語(イザワとイデ)が結合度の低い、”単語連続”の状態にあるとき字余りをみない(以下略)

調査の結果、
字余りになるものとならないものとの間に、だいたい規則性がみてとれたと言ってよい。それは、(a)グループ(括弧内は重複するので略)と、(b)グループ(同じく略)の「五音節めの第二モーラ」以下とにアリが位置する場合は、ほとんどすべてが字余りをきたすこと、また(b)グループの「五音節めの第二モーラ」以前にアリが位置する場合--一般にこの位置に母音がくると字余りは大変限定されるが--はアリが縮約形をも生じる語である故に、他の縮約をみない母音(からはじまる語)よりも相当字余りが多くなっており、しかもその字余りと非字余りとの間にも、それそけれ訓み分け得る基準がだいたいみてとれる、というものであった。

昔の歌に字余りがあるのは、それ相応の理由がある。それを無視して、無条件に字余りをしてはいけなかった。
字余りは醜いそれはそれぞれの世に訳がある知らずに真似を
(終)

「良寛、八一、みどり。その他和歌論」(百二)へ  「良寛、八一、みどり。その他和歌論」(百四)へ

メニューへ戻る うた(三百七十)へ うた(三百七十二)へ