千八百二十八(和語のうた) 「名歌辞典」を再度読む(その三)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
九月十一日(日)
「む」に入り
むらぎもこころたのしも春の日に鳥の群がり遊ぶを見れば

良寛歌集。この歌だけ読めば、どこが佳いのか分からないかも知れない。良寛の生活と歌を合はせると美しい。
村雨の露もまだひぬ槙(まき)の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

新古今。「露もまだひぬ槙の葉」と「霧立ちのぼる秋の夕暮れ」の対比が美しい。
「め」は六首のみで、「も」に入り
もののふの八十宇治河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

万葉。声調が美しい。茂吉も声調を云ふ。私がここで声調が美しいと感じるのは序詞など適度に古風だからだ。
もみぢ葉の流れてとまる湊にはくれなゐ深き波や立つらむ

古今。「もみぢ葉の流れてとまる湊」「くれなゐ深き波」が美しい。
百隈の道は来にしをまた更に八十島過ぎて別れか行かむ

万葉。「百隈の道」「八十島」の対比と、「別れか行かむ」が美しい。
「百伝ふ磐余の池に(以下略)」(万葉)は前に取り上げた。
「や」に入り、「八雲立つ出雲八重垣(以下略)」(古事記)は有名だ。
やすからむ大路(おほぢ)はゆかで岩根ふみさがしき山にまどふ世の人

六帖詠草、小沢蘆庵。中世の歌風に迷ふ人たちを戒めた歌と、解説がある。
八田の野の浅茅(ぢ)色づく有乳(あらち)山峰の沫(あわ)雪寒く降るらし

万葉。声調について、美しいとする解釈と、しつこいとする解釈ができる。私は後者で、「あ」が三つあるのは美しくなる可能性を持つが「の野の」はしつこい。さうなると「あ」の三つまでしつこく感じる。
八束穂(やつかほ)の瑞穂の上に千五百(ちいほ)秋国の秀(ほ)見せて照れる月かも

うけらが花。声調が美しいだけではなく、「国の秀見せて照れる月」と内容も佳い。
宿りして春の山辺に寝たる夜は夢の中にも花ぞ散りける

古今。かう云ふ歌を読むと、子規一門の歌で佳いものの比率が5%くらいの理由が分かる。
山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも

良寛歌集。前回取り上げた良寛の歌は、生活と重ね合はせて美しかったが、今回は歌のみで美しい。序詞までも良寛の暮らしを表はす。
山ざくら咲きそめしよりひさかたのくもゐに見ゆる滝のしらいと

金葉。「山ざくら咲きそめし」「くもゐに見ゆる滝のしらいと」が美しい。
山里にとひくる人の言(こと)ぐさは此のすまひこそうらやましけれ

新古今。解説の「しかし、実際に山里に住む人はないことだ」がそのとほりで美しい。
山里の春の夕ぐれ来て見ればいりあひの鐘に花ぞ散りける

新古今。「春の夕ぐれ来て見れば」「いりあひの鐘」と、「花ぞ散りける」の偶然をさうではないとしたところが美しい。

九月十二日(月)
山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音にめをさましつつ

古今。良寛にも似た歌が幾つもある。万葉だから良い古今だから悪いのではなく、個々の歌で見るべきだ。
山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水

新古今。「春とも知らぬ松の戸」「たえだえかかる雪の玉水」が美しい上に、二つの対比が美しい。
「ゆ」に入り
ゆく秋のあはれを誰に語らましあかざ籠に入れ帰る夕暮れ

良寛歌集。「あかざ籠に入れ帰る夕暮れ」が美しい。
夕づく夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ

古今、貫之。「声のうちに」の工夫が美しい。
「よ」に入り
世に経(ふ)ればうさこそまされみ吉野の岩のかけ道ふみならしてむ

古今。「み吉野の」を「国上山」にすれば、良寛作で通用する、そんな歌である。次は悪い選歌例で
世わたりの道にふたつの追分けやたからの山に借金のやま

狂歌(名称は不快なので略)。こんな下劣な文字の列を選んではいけない。これだって少し直せば
世渡りの道に幾つも分かれ道幸せの山苦しみの山 幾つも続く

赤は失格、橙色は問題ありで
夜(よ)を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり

万葉。朝戸を開きまだらに雪が降ったのが見えた。内容が少ないのは「出で見れば」が余分だからだ。「はだらにみ雪」で見たことは分かる。「朝戸を開き」で、出たかどうかは無関係だ。万葉にも駄作が混ざる。
「わ」に入り
わが庵(いほ)は都のたつみしかぞすむ世を宇治山と人はいふなり

古今。「都のたつみ」を中心に前後の句も声調がよい。
わが庵(いほ)は三輪(みわ)の山もとこひしくばとぶらひきませ杉たてる門(かど)

古今。「杉たてる門」に推敲の余地がある。それでも取り挙げたのは、良寛に似た歌があるためだ。
稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)はせむ黄泉(したべ)の使(つかひ)負ひて通らせ

万葉、憶良。亡くなった我が子を思ふ親の心が美しい。
わが夫子(せこ)はいづく行くらむ沖つ藻の名張(なばり)の山を今日か超ゆらむ

万葉。声調が美しい。
若の浦に潮(しほ)満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴きわたる

万葉。「潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして」が美しい。
吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

万葉。常世にゐないのは吾妹子だった。その事実と悲しむ心が美しい。
忘れじな難波の秋の夜はの空こと浦にすむ月は見るとも

新古今。「こと浦にすむ月は見るとも」が美しい。
忘れじの言の葉いかになりにけむ頼めし暮れは秋風ぞ吹く

新古今。「言の葉」の葉と「秋風」の秋の連携が美しい。解説は「秋」に飽きをかけているとあるが、それは無いと信じたい。「飽き」の意味が当時と今で違ふなら別だが。
わたつみの豊旗雲に入り日さしこよひの月夜あきらけくこそ

万葉。有名過ぎるが、今回だけ通過せず述べると「わたつみの豊旗雲」「入り日さし」が美しく、「こよひの月夜」との対比も美しい。次は偽善悪坊主の例で
われだにもまづ極楽にうまれなば知るも知らぬも皆迎へてむ

新古今。源信がこんな歌を読むとは驚く。次のやうに詠まなくてはいけない。
われだにも一人地獄にうまれなば知るも知らぬも追ひ出し入れず

「ゐ」は一首、「ゑ」は三首で、「を」に入り
荻の葉に吹けば嵐の秋なるを待ちける夜(よ)はのさを鹿の声

新古今。「吹けば嵐の」「秋なるを待ちける」が美しい。
を鹿鳴くこの山里のさがなれば悲しかりける秋の夕暮れ

藤原基俊歌集。「さが」が嵯峨を掛けるところが美しい。
よろづ葉のほかにも歌の書(ふみ)多く中の佳き歌今に伝へる
(終)

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