千八百二十九(普通のうた、和語の歌) 行動日記(蓮根、松戸、堀切、大河ドラマを切った、台風)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
九月十一日(日)
先日、蓮根駅近くのマンションに勤務した。繁華街ではなく、大きくはない駅から少し離れたマンションのほうが、入居者の対応がいい。
私の場合、都営地下鉄は遠回りなので、短絡するバスにも乗ってみた。かつてあった蕨駅から赤羽駅東口までの路線と、東側が重複する。但し短絡トンネルが出来たため、今は西口に乗り入れる。
その翌日は新京成の沿線に行く用事があり、昼食は松戸で食べた。昭和六十年の雰囲気が漂ふ。駅前を歩き、吉野家になってしまった。Tカードを使へることを初めて知った。栄養のバランスを考へて牛皿にしたが、野菜不足で逆に悪くなった。
吉野家の牛丼セット複雑で簡単メニュー牛皿選ぶ 野菜不足に


九月十二日(月)
堀切に二回目の用事で出掛けた。前回は左千夫所縁の四ヶ所を巡った。今回は堀切菖蒲園に寄った。三十年以上前に、一回行ったことがある。しかし帰りに駅まで歩いた記憶しかない。
江戸の世に菖蒲(あやめ)の園が二つあり 次の世となり家が建ち水も汚れて一たび消える

明治以降五つに増えたが戦争中は水田になり、戦後唯一残った堀切園を都が買ひ取った。

九月十四日(水)
堀切は今日が三回目で最後だ。京成の下町日和きっぷ(五百十円)で行き、帰りに柴又へ寄った。かつて柴又は無名な駅だった。帝釈天があると云っても、寺自体が無名だ。矢切の渡しは昔からあるが、これも昭和五十七(1982)年のちあきなおみ、昭和五十八(1983)年の細川たかしで、一気に有名になった。
柴又は寅さんにより参道と帝釈天が有名になる

矢切は、左千夫の小説「野菊の墓」で有名だ。堀切の一回目で、四ヶ所を巡ったのは偶然だ。今回は下町日和きっぷで行ける柴又を選んだ。
柴又のやきりの渡し 参道と同じ長さを 江戸川に向かひ歩けば着くものの 残る暑さが妨げとなる

(反歌) 参道が無いと参拝やや不満庭園及び客殿あるも
参道の雰囲気が好きだ。しかし値段が高いので交差する都道の中華料理店に入った。ランチタイムはほとんど七百五十円。私は八百円の五目焼きそばにした。量が多い上に、サラダ、中華漬物、杏仁豆腐が付いた。ここの中華料理店はお勧めだ。日曜もランチタイムがある。
参道で参拝客は皆笑顔私は横の中華料理へ

駅には、昔の「男はつらいよ」の撮影風景が柱に展示してある。金町まで乗り、改札を出たが目の前にJRの駅があるのを見て再び入った。上野行きが無くなりすべて高砂止まりになった。そして高砂は改札外乗り換へになった。上野まで乗り、寛永寺坂の駅跡があったやうな無いやうな雰囲気を過ぎ、博物館動物園は照明もついて明らかな駅跡だ。上野では改札を出ないで日暮里へ戻った。

九月十七日(土)
本日は大河ドラマ(土曜は再放送)を少し見て切った。少しで切るのは、これで三回目だ。一回目は初回で、わざとらしい演技にスヰッチを切った。二回目は、頼朝と義経の仲が悪くなりさうなのを、義経の任官で乗り切ることにした。頼朝、義経、幕府の有力者たちが喜ぶ。あたかも皆が史実を知ってゐるやうで、その安直な脚本に驚いた。そして後白河院の近辺で妨害が始まる。ここでスヰッチを切った。
そして今回は、時政の年取ってからの息子の急死で、陰謀が渦巻くところで切った。陰謀は立てる側が葛藤したり常態化したりと、心理の描写が必要だ。それ抜きで脚本を書くと、まるで悪質行為推進ドラマだ。
年重ね人選びから筋書きに芝居の長も落ちるところへ


九月十八日(日)
台風が鹿児島県の屋久島付近にゐる。今後、日本海に抜けて新潟県辺りで本州を縦断する見込みだ。昼過ぎにかなり大きい雷が鳴るやうになった。一瞬だが電気が消えた。ガス漏れ警報器と光ファイバーから電話線への機器が点滅した。新規に電源を入れた扱ひになったやうだ。給湯器は時計がリセットされた。
パソコンのインターネットも一時使へなくなったが、すぐに復旧した。
雷は梅雨明け夏の夕に鳴る嵐の前はほとんど来ない
(終)

追記九月二十四日(土)
先週の台風強く広い為 日本海の南方で関東地方大雨に その後台風急速に衰へたのは広すぎる為

(反歌) 今週も太平洋に台風が来たが消滅風雨も弱し

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