千八百二十二(和語のうた) 「名歌辞典」を再度読む(その二)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
九月四日(日)
今回は「な」から始まる。「中たえてえもわたられぬ(以下略)」(大隈言道)は前に取り上げた。
眺めつつ思ふもかなし帰る雁(かり)行くらむ方の夕ぐれの空
解説は、北国へ去った人を思ひ出し悲しい、とあるが私は、夕ぐれの空がかなしい、と解釈した。
鳴く声をえやは忍ばぬほととぎす初卯の花のかげにかくれて
新古今、人麻呂。「忍ばぬほととぎす」「かげにかくれて」が美しい。
名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ浪千重(ちへ)に隠りぬ大和島根は
万葉、人麻呂。大和島根は「海上から望見する大和の山々」と解説がある。これを現在の島根県辺りと解釈してしまふと、魅力が激減する。「名ぐはしき」「千重に隠りぬ」「大和島根」が美しい。
なごの海の霞の間よりながむれば入り日をあらふ沖つ白波
新古今。「霞の間よりながむれば」「入り日をあらふ沖つ白波」が美しい。
なさけなく折る人つらしわが宿のあるじ忘れぬ梅の立ち枝(え)を
新古今。話の筋が美しい。
「名にしおはば(以下略)」(古今)は有名だ。「に」に入り「熟田津に船乗りせむと(以下略)」は有名だ。「新治筑波を過ぎて(以下略)」も有名だ。「ぬ」「ね」「の」に入り、ここは佳い歌が見あたらない。
名にしおはば熟田津湊船乗りし新治筑波過ぎて十日を
九月五日(月)
「は」に入り「箱根路をわが超え来れば(以下略)」は有名だ。
はしけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲ゐ立ち来(く)も
古事記、倭建命。これも有名だから、本来は取り上げないのだが、初句の最初三文字の母音がアイエ、二句もアイエ。口調がよい。ここで注意することは、母音や子音を分析してはいけない。聞いて心地がよいときに母音や子音を確認するのは構はない。三句目の雲と来も、口調がよい。
鉢の子に菫たんぽゝこき交ぜて三世(みよ)の仏にたてまつりてむ
「鉢の子」「こき交ぜて」は慣れると悪くない。と云ふことは、普通の人は慣れるほど読まないから敷居が高い。「菫たんぽゝ」と「三世の仏」の対比が美しい。
ここから二首「初雁の」または「はつかりは」で始まる歌がある。古今と源氏物語だ。昔、特急「はつかり」があり、列車名は古歌から取ったのかと感心したことがあった。準急「つくばね」もあった。
はつせ川ふる川のべにふた本(もと)ある杉 年をへてまたもあひ見むふた本ある杉
古今の旋頭歌。「ふる川のべ」「ふた本ある」「年をへてまたもあひ見む」が美しい。解説は男女の別れとするが、私は日本の杉と捉へた。
春がすみたつやおそきと山川の岩間をくぐる音きこゆなり
後拾遺。「見ゆ」「きこゆ」の歌は嫌ひで、その理由は見たり聞こえたりするから歌にできた訳で、冗長だからだ。それなのにこの歌はよい。「山川の岩間をくぐる音」が美しいのだらう。かう云ふ歌は、子規一門だと作れない。牧水一門を捨てがたい理由である。
春ごとに流るる川を花と見てをられぬ水の袖やぬれなむ
古今。私は中学生くらいのときから「〇〇や〇〇〇む」と云ふ表現が好きだ。それとは別に「流るる川を花と見て」が美しい。
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも
万葉、家持。「霞たなびきうらがなしこの夕かげに」が美しい。
春の野に菫(すみれ)採(つ)みにと来(こ)し吾(われ)ぞ野をなつかしみ一夜(ひとよ)宿(ね)にける
万葉、赤人。「来し吾ぞ」の力強さが美しい。「野をなつかしみ一夜宿にける」も美しい。
九月六日(火)
「ひ」に入り
ひぐらしの声ばかりする柴の戸は入り日のさすに任せてぞ見る
金葉和歌集。全体の光景が美しい。
日暮るれば逢ふ人もなしまさき散る峰の嵐の音ばかりして
新古今。初見では佳い歌だと思った。しかしよく考へると、逢ふ人がないのは、日暮れと峰の嵐のどちらが原因か。
ひさかたの天(あま)の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも
万葉。「霞たなびく春立つ」が美しい。
人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
万葉。「草枕」は旅に掛かるとともに、「人もなき空しき家」を効果的にしてゐる。
「ふ」に入り
吹く風をなこその関とおもへども道もせに散るやま桜かな
千載和歌集。「吹く風をなこその関と」「道もせに散る」が美しい。
ふじのねにのぼりて見れば天地(あめつち)はまだいく程も分かれざりけり
全体の見立てが美しい。言葉を探すと「まだいく程も」か。
不士のねのふもとをいでて行く雲は足柄山の峰にかかれり
賀茂翁歌集、真淵。「ふもとをいでて行く雲」「足柄山の峰にかかれり」が美しい。
不尽の峯(ね)を高みかしこみ天(あま)雲もい行きはばかりたなびくものを
万葉。「高みかしこみ天雲も」が楽しく一方でおごそかで美しい。
布施置きて吾は乞ひ祷(の)む欺かず直(ただ)に率去(ゐゆ)きて天路(あまぢ)知らしめ
万葉。素朴な感情が美しく悲しくもある。
ふみ通ふみねのかけはしとだえして雲にあととふ小夜(さよ)の中山
東関紀行。状況が美しい。
九月九日(金)
「へ」は二首のみのため、「ほ」に入り
ほととぎす空に声して卯の花の垣根も白く月ぞ出でぬる
玉葉和歌集。「空に声して」が平凡だが、「垣根も白く月ぞ」が美しい。書きながら気づいたが「出でぬる」も平凡だな。そのため色を青から橙に急遽変へた。
「ま」に入り
まどろまじこよひならではいつか見む黒戸の浜の秋の夜の月
更科日記。「こよひならではいつか見む」が美しい。「秋の夜の月」が美しいためだ。
「み」に入り
見し世にはただなほざりの一言も思ひ出づればなつかしきかな
琴後集。内容の温かさが美しい。
三十(みそぢ)余り 二つの相(かたち) 八十種(やそくさ)と 具(そだ)れる人の 踏みし踏所(あしどころ) 稀にあるかも
三十二相八十種好を和語で読むなんてすごいことだ。「八十種」「具れる」が美しい。一句と五句は「あ」を含むので破調ではない。ではないが、私だと次のやうに作ってしまふ。
三十(みそぢ)足す二つの相(かたち)八十種(やそくさ)と具(そだ)れる人の踏みし足跡(あしあと) 稀なる事ぞ
人により、古今集嫌ひ、新古今嫌ひなどいろいろある。私は昔から破調嫌ひだ。
御立(みた)たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
万葉。「島の荒磯を今見れば」「生ひざりし草生ひ」が美しい。
道のべの草の青葉に駒とめてなほ故郷(ふるさと)をかへりみるかな
新古今。「道のべの草の青葉に駒とめて」が美しい。
九月十日(土)
三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本辺(もとべ)は 馬酔木花開(さ)き 末辺(すゑべ)は 椿花さく うらぐはし山ぞ 泣く児(こ)守る山
万葉。四七四七四七八七の珍しい形式なので取り上げた。山を大切にする美しい歌である。それなのに解説が「表面では山をほめているが、裏面では夫人をほめている」と変なことを云ふ。インターネットで調べても、さう云ふ解釈は一つも無かった。
み山には松の雪だに消えなくに都は野辺の若菜つみけり
古今。山奥と都の気候差を詠ふのが美しい。あと、歌らしい歌であるところが美しい。
み山辺の松のこずゑをわたるなり嵐にやどすさをじかの声
新古今。状況が美しい。
みやまより落ちくる水の色見てぞ秋はかぎりと思ひ尻る
古今。「水の色見てぞ」が美しい。
み吉野の石(いは)もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり河をさやけみ
万葉。状況が美しい。「うべも鳴きけり」「河をさやけみ」と声調が美しい。古語を使ふと美しいが意味がすぐに分からない。現代では、長短があり同じ手法を繰返さない工夫が必要だ。
み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも
万葉。「際」「木末」「騒く」が美しいが、それは一つ前の一首と同じ効果で、現代は注意が必要だ。
見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむ後ぞ咲かまし
古今。かういふ単純な内容は佳い。
見る書(ふみ)はのこり多くも年くれて我がよふけゆく窓の灯火(ともしび)
春葉集。これも前の一首と同じで、単純が美しい。「年くれて」と「我がよふけゆく」の重なりも美しい。
みるめ刈る方やいづこぞ棹さして我にをしへよ海士の釣り舟
伊勢物語。みるめは海藻の名で、内容はつまらないが、伊勢物語では別の文脈と云ふ。みるめは見る目のある、海士は海女で童女。別の意味がなくても、声調が美しい。伊勢物語の文脈だと、更に美しい。
見わたせば花も紅葉もなかりせり浦の苫屋の秋の夕ぐれ
新古今。声調が美しい。解説はさびしい眺めと捉へたが、私は好い意味の寂しさと捉へた。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ
新古今。「見渡せば山もと霞む」が美しい。二つ以上の句が美しいことを、声調が美しいと云ふのだと気付いた。逆説の文脈だが「夕べは秋と」も美しい。
よろづ葉に佳き歌ありて違ふありほかに集へるものまた同じ(終)
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