千七百九十八(和語のうた) 茂吉を読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月八日(月)
これまで茂吉特集を四回組んだ。今回また茂吉の歌を読んだのは、茂吉自身は左千夫を死後も師匠として扱ってきたことが判ったからだ。師匠の歌論に反対しても構はないし、作風が異なるのも構はない。しかし師弟の関係が無かったかのやうに装ってはいけない。
図書館の都合で本の順番が逆になり、全集の第二巻を先に借りた。大正十四年の「ともしび」は、帰国した直後から始まる。帰国直後は美しい歌が七つ続き(この章最後のチロールの歌のみよくない)、その後は火事跡の話で特に渋谷川に卵の殻が流れる歌は汚いと前回も思った。これが一回目の感想だった。
二回目に読むと、一回目は佳いと思った
かへりこし日本のくにのたかむらもあかき鳥居もけふぞ身に沁む
の中の「日本のくに」が冗長に思へてきた。それ以外の歌は佳い歌だが、やはり火事跡以降は、優れたものがない。日記として読むべきなのだらう。
ここで、一人の作者でも歌に幅があることに気付いた。悪い歌でその歌集を判断してはいけない。
八月九日(火)
焼けはてしわれの家居(いへゐ)のあとどころ土の霜ばしらいま解けむとす
「家居」「あとどころ」が美しいが、四句目が字余りだ。霜ばしらは土にできるから「土の霜ばしら」は冗長だとは思はない。ここは土が活きる。だが字余りは醜い。
かへり来てせんすべもなし東京のあらき空気にわれは親しむ
「あらき空気に」が美しい。
とどろきてすさまじき火をものがたる穉児(をさなご)のかうべわれは撫でたり
「とどろきてすさまじき火」が美しい。四句目が字余りだが、穉児は三音半、かうべは二音半。目立たない理由はここか。
焼あとにわれは立ちたり日は暮れていのりも絶えし空しさのはて
「日は暮れて」が美しい。
八月十日(水)
一昨日書いた茂吉自身は左千夫を死後も師匠として扱ってきた根拠の歌は
伊藤左千夫第十三回忌 五月三日於亀戸普門院
師の墓に降れる雨こそ寂しけれ墓をぬらせる行春(ゆくはる)の雨
これ以外の多数の歌を、連続した日記として読むと、美しさがある。前に書いたが、歌は字数を合はせる工夫をした分、散文より印象に残る。
これまでは茂吉の歌に美しさ消えたことのみ残りたが 日に日に歌を重ねれば 人を録(しる)すの美しさあり
八月十一日(木)
茂吉の最初の歌集「赤光」を読み始めた。明治三十八年、三十九年は前回同様佳い歌は見つからず、四十年の一章目「虫」まで同じだ。ところが二章目「雲」に入ると美しい歌が連続する。三章目「苅しほ」も同じだが、四章目はまた悪くなり明治四十一年以降に続く。「木のもとに梅はめば酸し(以下略)」は明治四十三年。左千夫が批判したのは当然だ。
「赤光」が再び佳くなるのは、「死にたまふ母」そして最終章「悲報来」だ。第五版まで新しい歌を先にしたことこそ、「赤光」を有名にした理由だった。残念なことに改選版では「あらたま」と同じく、古い歌を先にした。最初からこの形態だと売れなかっただらう。
歌詠みで茂吉世に出たきっかけは死にたまふ母続いて左千夫
八月十三日(土)
第二集「あらたま」は、途中から日記を歌にした物語性が出てくる。これが人気が出た理由だらう。つまり「赤光」で母の死と左千夫の死が人気を呼んだ。その後は中だるみだが、「あらたま」の途中から中だるみを脱した。あとは長崎、欧州と続く。
万葉の言葉に代はる美しさ茂吉は日々の出来事を詠む(終)
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