千七百九十六(普通のうた、和語のうた) 韻文と散文
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月六日(土)
三たびメモ書き歌に韻文に関する歌が二首あるため、この特集に移動した。
韻文は散文よりも字の数を合はす努力が美しくなる
韻文は美しい為読む人の心に入り留まり活きる

歌(長歌、短歌、旋頭歌、仏足石歌)と発句(今の俳句)だけではない。定型詩も美しい。だが不定形詩は合はない。
他の人たちはどうだらうか。不定形詩が好きな人たちもゐるし、その中間もゐる。それぞれが自分に合った文を作り、或は読むとよい。
ここで困るのは、不定形詩が合ふのに発表の機会が無いとばかり、歌に投稿することだ。これは歌を破壊する。
私は字余りや字足らずが合はない。明治後期以降今に至るまで破調の歌を作る人がどんどん多くなった。破調の歌でも気づかないことがある。どう云ふ場合に目立たないかは、まだ分からない。昔のやうに「あ、い、う、お」を字余りとしないことではない。別の理由がある。
破調の歌を作る人は、別のことに関心があるのだらう。心の微妙な描写か、或は心の熱情か。しかしこれらは歌の定義ではない。歌は定型に作り、美しさがそれ以外に一つは必要だ。これが歌の定義として最もよい。
音余り又は足りない歌詠みはほかを目指すも読むことできず


八月七日(日)
不定型詩でも中原中也の「曇天」は、初めて読んでから五十年経過した今でも好きな詩だ。今から三十年くらい前だらうか、中也の詩集を読んだら、「曇天」以外は感動が全く無く、愕然としたことがあった。
「曇天」も全体がよい訳ではない。四つの段落のうち最初の二つまではよい。三つ目で少年の日を回想し、黒い旗そのものを云ひたいではなく、別のことがあるのだと気づく。
それが何かは分からないが、最初の二つの段落の調子が、残りの二つの段落でも続くため、心地よく全体を読み切ることができる。
口語体ではあるが「はためくを 見た」「音は きこえぬ 高きが ゆゑに」と文語に近い表現を使ふところが、調べをよくする理由だ。
私が歌を作るときも、今の人が読んだら変に感じる文語体を除いて書く。それは口語体だが、中也と同じ発想だ。
今の世にふみの言葉は遠きがゆゑに 今の世は話し言葉で調べを高く


八月八日(月)
韻文は、散文より音数を整へる手間を掛けたのだから、散文より優れる。これは六日の歌で指摘した。ところが心に入る以前の問題として、判りにくい歌がある。
歌は、美しさを求めるのか、判りやすさを求めるのか。判りやすさを求めて読む歌も悪くない。茂吉の海外留学中や、帰国後の歌を読むと、さう感じる。連作、日記風の歌である。
連作が散文より劣る場合もある。散文は、全体の構成を考へるが、歌は一首一首が独立してゐる。だから連作を順番に読んでも、判らない場合がある。あと連作は判っても、その前後が判らないことがある。
だが、一番駄目なのは破調の歌だ。散文は許されても、歌では許されない。(終)

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