千七百八十五(うた) 固定思想(宗教)は文化の一部だ
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月二十二日(金)
最近、宗教の悪質な行為が目立ち、宗教の語を固定思想に変へた。新発見や新発明とともに変化するのが科学、しないのが固定思想である。
ここで、ある人間が権威を持ち、その人の云ふことが絶対正しいとする。そんなことは絶対にない。もしあるのなら、その人の固定思想が世界中に広まったはずだ。
さう云ふ権威者の発言は、変はることが多い。変はるから固定思想ではないと思ってはいけない。この場合も、権威者の発言を正しいとする固定思想である。かう云ふ人は、思ひつきのふりをしてカネ集めに走りがちだ。そしてつひに、首相が殺される事件まで発生した。

七月二十三日(土)
固定思想(宗教)は文化の一部だ。これはこれまで主張してきた。その一つ目の理由は、有害な固定思想を出さないためだ。
さういふ目的を持たなくても、人間社会を眺めれば、固定思想は文化の一部だと判る。
それでは固定思想に進化がないと心配する人がゐるかも知れない。固定思想は従来の流れの延長で続けるべきだ。変化はわずかでよい。長い間に大きく変はる。

七月二十四日(日)
私が固定思想に厳しい目を向けるやうになったのは、或る悪坊主が自動車のボンネットに女性を乗せて蛇行運転して轢き殺さうとした事件と、会員の女性が先輩女性に騙され幼児を餓死させた事件だ。
そして今回の安倍さん銃撃により、多額献金問題が表面化した。
気をつけろ固定思想に洗脳される ご利益があれば多数が既に信仰
現実を見れば信仰少数のみだ 人数で功徳があるか無いかが分かる


七月二十五日(月)
幼児餓死事件裁判始まる、日蓮関連をすべて変更したに始まり、その後何回かに分けて関係する言葉を変更してきたが、本日は「キリスト教」を「XX教」に変更した。これは或るキリスト教徒が、ある日蓮系信徒団体を国際化したと称賛したことがあった。これは許しがたいので、本日修正した。なぜ今頃になったかは、国際化とはつまり移った先の国内では非文化だ。
思へば今回の銃撃騒ぎも、韓国の宗教が日本に入り、しかも日本は献金収奪だけが目的とマスコミに書かれてゐる。
各国で文化に沿いて発展し堕落粛清繰り返しあり


七月二十六日(火)
南伝仏道のお寺に参拝し、在日ミャンマー人の人たちの信仰について接する機会があった。そこで分かったことは、多くの国民、つまり普通の人たちが行ふ風習が固定思想(宗教)だ。
日本でも、明治維新の前までは神仏が集合し、お寺と神社を含んだものが固定思想(宗教)だった。その後、明治政府の強制でお寺と神社は対立するものになり、お寺は葬式、神社はお祭りや七五三と、国民は固定思想分裂状態になった。そして国民の不安に乗じて、カルトが現れた。
カルトとは文化と無縁固定にて社会と無縁民とも無縁
(終)

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