千七百七十六(うた) 坪内稔典「正岡子規」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月七日(木)
坪内稔典「正岡子規」は、読んでみて特に取り上げるべき内容は無かった。ところが同時に借りた玉城徹「子規-活動する精神」は内容が劣悪で、口直しに坪内稔典「正岡子規」を読み直した。
口直し図書では文字だ目直しかそれを記憶の脳直しかな

すると、幾つか取り上げるべき内容に出会った。一回目に読んだときに取り上げるべきものが無いと思ったのは、家系や家族のことを長々と書いてある。そして夏目漱石が書いた子規像は
大将は昼になると蒲焼を取り寄せて(中略)それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食ふ。(中略)東京へ帰る時分に、君払つて呉れ玉へといつて澄まして帰つて行つた。

一回目は、これでこの本が嫌になつた。これは坪内さんが悪いのではなく、子規が悪いのだが。尤も坪内さんは子規の金銭を軽く見る例として挙げるが、これは子規の無神経として挙げるべきだ。

七月八日(金)
二回目に読んだときに、この本を取り上げようと思ったのは
寝たきりになってからの子規は、出社しない日本新聞社の社員であった。

別表には明治二十六年以降、毎年四つを「日本」に発表し、それは発病した明治二十八年以降も同じだ。さすがに最後の二年間は、明治三十四年が「墨汁一滴」、三十五年は「病牀六尺」と一つづつだが。
俳句の会や、短歌の会を自宅で催したのは、記事を書くためのネタ集めだったのかも知れない。「歌よみに与ふる書」は明治三十一年に発表した四つのうちの一つである。子規は俳句や短歌の改善を目指したのではなく、「日本」の記事を書く一環だったのかも知れない。だから明治二十五年の
和歌も俳句も正に其死期に近づきつゝある者なり

とも矛盾しない。
病床で記事を書くため題材に俳句の会と歌会開く

一方で、西洋画の写生に刺激されて、写生を文芸に取り入れた。西洋画の写生を初めて見れば、誰もがその美しさに驚く。尤も初めて見てから時間が経つとともに、日本画のよさにも半分の人たちは気づくかも知れない。
子規が写生を主張したのは、初めて西洋画に出会った心境のときではないか。或ひは日本画のよさに気付く人ではなく、そのまま写生を維持したのかも知れない。
当時の旧派に対抗するため、写生を主張したこともあり得る。

七月九日(土)
子規が終生社員だった「日本」を見よう。陸羯南(くがかつなん)が社長で
政教社の機関誌「日本人」とともに、当時の国粋保存の思潮を結集し(中略)条約改正案に鋭く反対し、「日本」はしばしば発行停止処分を受けた。

その思想は「日本」創刊の辞より、西洋文明(当時の言葉では泰西文明)を
日本に採用するには、(中略)名あるを以てせずして、只日本の利益及幸福に資するの実あるを以てす。故に(中略)攘夷論の再興にあらず。

これは今でも当てはまる。子規の叔父と羯南は親友だった。羯南の紹介で、子規は羯南の隣家(根岸)に引っ越し、後に「日本」に入社した。(終)

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