千七百七十四(うた) 図書館は、著者名や題名で本を購入してはいけない
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月四日(月)
玉城徹「子規-活動する精神」を図書館で借りた。しかし不満だらけだ。玉城さんが著述するのは自由だ。私が購入したのなら文句はない(購入するはずは絶対に無いが)。しかし図書館が、この本を購入してはいけない。
第一章の冒頭から
子規について、わたしは、それほど深い理解を持つ者ではない。何か特別の視点が用意してあるのでもない。
或いはこの著者は、謙遜する人なのかも知れない。さう思ひ読み進むと章の最後で
誰もが共有する、ごく普通のひかりに照らして、わたしは、子規を見ようと思う。自分一人の研究テーブルで発見した秘密によって、聴き手をあっと言わせる趣味も、資格も、わたしにはない。
これは悪質な文章だ。自分の研究テーマで発見したことで聴き手をあっと言はせたら、それはすごいことだ。なるほど子規はさうだったのかと、その研究者は皆から尊敬されるだらう。それなのに玉城さんは、そんな趣味はないと云ふ。自分の能力の無さを棚に上げて、さう云ふ能力のある人(特定の人ではないことが救ひだが)を、趣味呼ばはりしてはいけない。
たまきはる内で読むのは構はぬも税にて買ひて置いてはならぬ
七月五日(火)
第二章は最後の
どうして子規のような精神が出現したたのか。わたし一人の力で解明できる問題ではない。
一人で無理なら、共同で解明しようとしたのか。玉城さんは単に格好をつけただけだ。
たまきはる玉城徹の著作には中身が無くて文体悪い
「たまきはる」がどこにも掛からないではないか、と云はれさうだ。実は玉城某に掛かる。本邦初公開である。それより、最初は「玉城さんの」と作ったが字足らずだ。そこで「玉城徹の」になった。呼び捨てにしたい訳ではない。
第三章は、子規の俳句「鶏頭の十四五本もありぬべし」について
短歌に熱中するあまり、子規は、いつか短歌的な<しらべ>の世界のとりこになったのであろうか。(中略)そのように見ることも、多分、可能だろうが、それほど簡単なものでもあるまいと、わたしは思う。
どう云ふ理由でどう簡単ではないのかを云はなくてはいけない。
七月六日(水)
玉城さんは、文芸とは無縁の人なのだらうと想像した。ところが調べると、昭和四十七(1972)年『樛木』で第24回読売文学賞受賞。昭和五十三(1978)年歌誌「うた」創刊昭和五十五年『われら地上に』で第13回迢空賞、平成十二年『香貴』で短歌新聞社賞・現代短歌大賞受賞。
賞は作品が受賞するのであって、人ではない。その人の作品には駄作もあることだらう。
図書館が、そんな著書を、受賞歴だけで購入してはいけない。税金の無駄使ひになる。
その書籍すぐれたものかたまきはる幾世を経たらはっきりとする(終)
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